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李氏朝鮮の記録

2019-06-16 16:45:45 | 日記
更新日 2017年09月22日               トップページ                  
    
        李氏朝鮮時代の写真 庶民の生活      
        李斯朝鮮時代の庶民の生活
撮影年代不明 貴族階級の結婚式の様子でしょう。           左上に貴族用の帽子が写っています。左側には瓦屋根が見えます。           背景の扉の紙が破れています。修繕のゆとりが無い様です。              
 
        撮影年代不明 貴族階級の結婚式              
 
        撮影年代不明 花嫁を花婿の家に送り届ける行列              
 
        撮影年代不明 写真はがき 田舎の飯家           左下に土で作ったかまどがある。屋根の代わりに上を草で覆っている。           中央左の女性が調理師で、中央右の帽子を被った男性がお客なのであろう。お客の前には白い食器が並んでいる。              
 
        撮影年代不明 飯家              
 
        撮影年代不明 田舎の飯家           他のHPで、Korean Restaurantと紹介している写真であるが、飯家には見えない。検証が必要である              
 
1900年撮影 撮影者不明 漢城(ソウル)の食堂              
 
        撮影年代不明 撮影者不明 食堂              
 
1888年 漢城(ソウル) 南大門大通り 南大門大通りに面して建っているのが商店である。           大通りの中央手前に牛が背中に荷物を載せて運んでいる。荷車・人力車・牛車・馬車は見受けられない。           路面電車は1898年、漢城電気会社設立は1898年である。写真撮影時には、電信柱・線路は存在しない。           民家の屋根が連なっているが、門や庭は見受けられない。家庭菜園・花や庭木等の園芸は存在していない。              
 
        撮影年代不明 A MARKET 朝鮮風俗 市場           店舗を構え営業している商業形態を【廛】(テン)といい、常設の店舗等の特別の施設を有さず,行商人や近辺の農民たちが定期的に集まって商品交換を行う場所【場市】(じょうし)と言った。           李氏朝鮮後期の純祖の時の全国の場市総数は1061ヶ所で、これらは30里ないし40里(朝鮮の1里は392m)の往復1日行程を基準に毎日変えて行って市場が開かれるようになっており、商人が各場市を歩き回って品物を売るのに便利なように作られていた。場市での取引は、主に生産者と消費者との直接的な接触で成り立ったが、負褓商などの行商人も重要な役目を引き受けていた。これらは、その地方の産物以外の商品を樽が無いので重い甕などに商品を入れ、車が無いため背負子で背負って、苦労して各場市を歩き回りながら売り、同業者たちは中世ヨーロッパのギルド的な性格の同業組合を成していた。              
 
1903年 仁川の場市              
 
        撮影年代不明 井戸水を汲み上げ売り歩く男達           両班の家は自前で井戸を持っていたが、           両班以外の者はギルド(職業別組合)の井戸水をお金で買わなければならなかった。      
 
        撮影年代不明 餅を搗く人たち 背景の建物が立派なので貴族階級の住宅であろう。餅を搗いている人達自身で食べるのではなく、貴族達のイベント・お祝い様に用意しているのであろう。              
 
        1904年 漢城 「 韓国の女性、メイド、ソウルの街中で、...韓国 」              
 
1903年 通りでゲーム(ギャンブル)をする男達              
 
1899~1900年に漢城(ソウル)郊外での撮影。 チャンソンと呼ばれるトーテムポールの様な木像と同じで、エベンキ族と朝鮮でだけ見られる。 キリスト教の宣教師によると、異教徒、偶像崇拝、盲目バイ·デビル、迷信韓国人と説明されている。              
 
        撮影年代不明 チャンソンの参考写真              
 
1899~1900年撮影 漢城(ソウル)で豆を挽く男              
 
1903年 Herbert G. Ponting撮影 北京へ向かい道 漢城(ソウル)の郊外               
 
1903年 Herbert G. Ponting撮影 釜山              
 
1903年 Herbert G. Ponting撮影 漢城(ソウル)の寺子屋              
 
1903年 Herbert G. Ponting撮影 ソウル龍山漢江渡し場               
 
1904年 George Rose 撮影 漢城(ソウル)の城壁              
 
1903年 Herbert G. Ponting 撮影 済物浦(仁川の旧名)              
 
1904年 撮影者不明 漢城(ソウル)の郊外              
 
1904年 George Rose 撮影 平壌              
 
1904年 アメリカのCollier`s(コリアーズ)の特派員 Robert L Dunn(ロバート・ドン)が150ドルを釜山で両替した李斯朝鮮の膨大な小判の前で撮影 中央男性がRobert L Dunn(ロバート・ドン)である。 日露戦争を取材しに来たアメリカのコリーアース(Collier's)特派員ロバート·ドン(Robert L. Dunn)が驚異的な小判の山の前で大喜びの表情で記念撮影をしました。これらの硬貨は、北に進撃する日本軍を従軍した記者が使用取材経費であった。ダンは、韓国の通貨の価値がどの程度落ちたのか知らなかった。ソウルを離れる準備をしていた日の朝、日本人通訳栗田に150ドルを変えてくるように指示した。夕方を行うまでポーターに消去されてきた小判の山を見て驚きやジャパジル状況だった。「韓国での現金両替」というタイトルの記事は、1米セントの種類に応じて、小判15〜30に匹敵する額であり、1ドルを両替すると、装丁した人が取得して行かなければならない状況だったと説明した。(Collier's Weekly、1904.6.4)              
 
        撮影年代は、中国人により買収されてからの撮影です [ 大仏ホテル ] 1888年に、日本の海運業者が仁川に建築した韓国初のホテル 日本人が造っただけに240枚の畳を使用し、ベッドの部屋11室とレストランを備えた3階建ての洋館の建物だったと解説。           当時は交通の便が悪く、ソウルまで行くには仁川で1泊は必要だった頃に建てられた。宿泊客のほとんどは外国人だったため、日本語ではなく英語で宿泊客を出迎えた。 このホテルの部屋の価格は当時、上級2円50銭、中級2円、下級1円50銭だった。旅館の上級部屋価格が1円だったことと比べると高い料金だが、人気があったと記録されているという。           現在、大仏ホテルは残っておらず、京仁線が開通されると経営難に直面し、中国人に買収された。その後、1978年まで中国レストラン「中華楼」となった。               
 
    

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