大本営と作戦相反、激闘の沖縄で苦悩した陸軍高級参謀の慧眼
『戸部良一』 2020/08/15
戸部良一(防衛大名誉教授)
日本の敗戦が濃厚となった大東亜戦争末期、米軍からその戦術を称賛された陸軍将校がいた。
彼の名を、八原(やはら)博通。沖縄戦で戦った第32軍の高級参謀だ。
その沖縄戦にて八原は戦略持久を図る作戦計画を立てるも、大本営による「ばかげた攻撃要求」の結果、自身の計画が一貫して実行されず、その目的を十分に達成することができなかったと自らの手記で批判している。
作戦計画がそのまま実行されていれば、第32軍は相当の戦力を保持したまま終戦を迎えることができただろう。
もし自らの作戦が実行できたなら、軍人・軍属合わせて約10万人の戦死者と、その戦闘に巻き込まれた沖縄住民の死者約9万人という、悲劇的かつ甚大な被害も少なくとも一部は避けられたのではないかと、八原は言いたかったのだろう。
第32軍の高級参謀を務めた八原博道
(Wikimedia Commons)
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南西諸島の防衛を任務とする第32軍は、当初飛行場の建設ぐらいしか期待されていない小規模の兵団だった。しかし1944年7月のサイパン島の失陥以後、フィリピンや台湾とともに沖縄も米軍の上陸攻撃対象の一つと予想されるようになると、決戦のために兵力を大きく増強されることになった。
これに応じて作戦主任であった八原は、攻勢主義を基本とする次のような作戦計画を立てた。
米軍は敵前上陸時に必ず海軍による激しい艦砲射撃と空軍による猛爆撃を行うが、第32軍は築城作業によって強化された洞窟陣地にこもって敵の砲爆撃をしのぎ、狭い上陸地区にひしめいて混乱状態にある米軍を、強力な砲兵と充実した歩兵戦力の機動によって叩く。
これが八原の計画であった。この計画に基づき、第32軍は洞窟陣地の築城と歩兵部隊の機動訓練に全力を注いだ。
ところが、44年10月に米軍がフィリピンに上陸すると、その危急に対処するため大本営は第32軍に対し、沖縄本島から1個師団抽出を命じる。第32軍はこれに抵抗したが、結局押し切られてしまう。
さらに大本営は抽出した兵力の補塡(ほてん)に本土から1個師団を派遣すると内示したにもかかわらず、それをすぐ撤回する。輸送中の増援師団が敵の潜水艦や爆撃機に襲われることを危惧したためである。大本営の措置は場当たり主義で、第32軍は不信感をますます強めた。

(Wikimedia Commons)
沖縄本島の基幹兵力はそれまで3個師団および1個独立混成旅団だったが、そこから1個師団を引き抜かれたため八原は作戦方針の根本的な転換を図る。従来の計画では米軍の上陸地として3方面を想定し、それぞれ攻勢による決戦を構想していたが、兵力不足によりこの計画は成り立たなくなった。
八原は沖縄本島の南部、島尻地区に主力を置き、この地区の海岸に米軍が上陸すれば、これまで通り攻勢作戦によって決戦を行うことを想定した。だが、もしその北の中頭(なかがみ)地区の嘉手納に敵が上陸した場合攻勢の成功を期しにくいため、首里を中心とする南部に築いた堅固な要塞地帯に立てこもって戦う戦略持久に転換したのである。
そして45年4月1日、ついに米軍は嘉手納に上陸する。しかし第32軍は動かなかった。
八原は大本営が本土決戦の方針を示したころから、米軍との「決戦」よりも「戦略持久」を望んでいたようだ。米上陸部隊は海軍と空軍の支援を受け、強力な戦力を有しており、たとえ戦っても勝ち目はなかった。
そのため決戦を挑んで敗北を早めるよりも、できるだけ長く沖縄で米軍に対し多くの出血を強要し、本土決戦準備の時間稼ぎをしようと考えたのであった。その点で、敵の嘉手納上陸は八原の思うつぼであった。
だが、動かない第32軍に対して、大本営と上級司令部である台湾の第10方面軍は攻撃を督促する。対立の焦点となったのは、中頭地区の2つの飛行場であった。大本営としては、沖縄で特攻を主体とした大規模な航空作戦を展開しようとし、そのため二つの飛行場確保を重視した。
一方、八原にとっては戦略持久を徹底させるため、二つの飛行場を放棄することもやむを得なかった。そして案の定、米軍の上陸後まもなく飛行場は敵の手に落ちてしまった。
大本営と第10方面軍は、第32軍に対して再三にわたって飛行場奪回を要請したが、それは八原からすれば戦略持久の意味を理解していないに等しかった。しかし、戦地から遠く離れた東京では、昭和天皇さえも「現地軍ハ何故攻勢ニ出ヌカ」と疑念を表明した。
「攻勢に出ないのは、消極的で臆病だ」との非難に耐えられなくなった第32軍司令部は、八原の反対を押し切り、4月8日を期して飛行場奪回のために攻勢に出ることを決めた。ところが、その直後に新たな米軍船団の接近が伝えられ、主力陣地の側背を脅かされる危険性が生まれたため、攻勢作戦は中止となった。この攻勢作戦の中止により、第32軍は再度腰抜けだと言わんばかりの批判を受けることになる。
なお、第32軍参謀長であった長(ちょう)勇中将は、少佐時代に陸軍の未発のクーデター計画である十月事件へ関与するなど、乱暴かつ豪快な軍人として有名であった。第32軍の攻勢中止を聞いた参謀本部作戦部長の宮崎周一中将は、長について次のように日誌に書いている。
長中将モ真ニ攻撃精神旺盛ナル軍人トハ申シ難シ、余リ口ニ強キハ実ハ必スシモ然ラストノ原理ヲ実証ス。
長は八原の反対を排して、4月12日に夜戦攻撃を試みた。攻撃は失敗したが、中止の決断が早かったため損害は大事に至らなかった。その後、首里城の洞窟陣地に司令部を置いた第32軍は戦略持久に徹し、敵の攻撃に抗しつつ主力を保持したまま1カ月も持ちこたえた。
八原は戦略持久という戦術に自信を持ち始めていた。しかし、軍司令部では、司令官である牛島満中将や長参謀長をはじめ、八原以外の参謀たちの大半が再び攻勢に傾いていった。
そもそも、戦略持久では米軍には勝てなかった。いずれは負けることが明らかだった。そのため司令部内では「どうせやられるなら力のあるうちに攻撃に出よう。このまま消極受動に立って、敗北と死を待つのは耐え切れぬ」という心理が膨らんでくることは避けられなかった。八原が主張する「攻勢はたとえ一時的・局部的な勝利を得られるとしても、結果的には敗北を早めるだけだ」という考えは受け入れられなかった。
八原は日本軍の将校について、次のように述べている。
高級将校:感情的・衝動的勇気はあるが、冷静な打算や意志力に欠ける
幕僚: 主観が勝って、客観が弱い。戦術が形式的技巧に走って、本質を逸する。
技巧は良いがデザインは下手。
感情に走って大局を逸し、本来の目的や本質を忘れる。
まさに、彼の体験に基づく述懐と言えよう。
そして5月4日早朝、第32軍は攻撃を開始する。だが八原の予想通り、作戦は失敗に終わり、翌日夜には中止となった。やがて首里の戦線は崩壊し、戦力を大きく減らした第32軍は5月下旬に喜屋武(きゃん)半島を目指して後退する。巻き込まれた住民の被害が急増するのはこのころからである。
そのころ、航空参謀の神(じん)直道少佐が連絡のため大本営に派遣されることになった。東京に戻った神の報告では、八原について次のように記されている。
軍参謀長ト参謀間ニ作戦思想ノ不一致 消極的性格ノ暴露 八原ノ不忠 一切ハ智ニアラス人格ナリ
もちろん、長と八原との間に作戦思想の食い違いが見られたことは事実である。だが八原は、参謀長の意見に基づいて司令官が攻勢作戦を決断したとき、それに反対でも(その不満を顔に出すことはあっても)決定には従った。
神が報告した「不忠」というのは中傷に近いであろう。八原は軍司令官や参謀長の判断の誤りに批判の目を向けることはあっても、牛島や長の人間性、2人の軍人としての姿勢に対する敬意は変わらなかった。
彼は自分の戦略判断に強い自信を持ち、論理を突き詰めて作戦計画を立てた。それを「智」が勝っているというならば、そうだったかもしれない。だが、たとえ人格者ではなかったにしても、彼の人格に欠陥があって、それが「消極的」な戦略持久につながったというのは不当と言うべきである。
しかし、戦略持久が消極的であるという見方は、大本営の中に浸透していた。『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌』によると、5月末、戦争指導を担当していた参謀本部第12課は第10方面軍の状況報告を聞いて「兵力温存絶対持久主義」が沖縄作戦を害したと批判し、それが本土作戦をむしばみつつあると憂慮している。ついぞ、八原の戦略持久は理解されなかったのである。
そして6月23日早朝、牛島と長の自決をもって第32軍の組織的な軍事行動は終わる。八原は2人の自決を見届けた後、事前の命令に基づいて沖縄戦の実態を報告し、本土決戦に参加するため東京を目指した。しかし、彼は沖縄を離れる前に米軍に捕まり捕虜となる。当時42歳であった。
八原によれば、沖縄の戦いは「決戦か持久か」という点で、作戦目的が「混迷」したとされる。大本営は航空決戦を言うばかりで、それが成り立たない場合、どのように地上戦を戦うかを明示しなかった。
さらに、事前に通知されたはずの第32軍の作戦計画について諾否を言わず、作戦方針を協議しようともしなかった。連絡あるいは協議のために現地沖縄に誰も送り込んではこなかった。攻勢を要請しながら、援軍を送ろうともしなかった。大本営としては、送れば途中で海没することを恐れたためである。
英国の軍事史家、H・P・ウィルモットは「沖縄における日本軍の損害は敵に与えた損害と釣り合わず、損害に見合う時間を稼ぐこともできなかった」と論じつつも、次のような点を指摘している。
5月4日の「思慮に欠ける攻勢」を除けば、第32軍は戦いを長引かせ米軍にできるかぎりの出血を強いるため防御戦闘に徹した。島尻地区の日本軍の拠点が除去されるまで、米軍は沖縄の飛行場の安全を確保できなかったので、空母艦隊を沖縄海域にとどめなければならなかった。そのため、日本軍特攻機の絶え間ない攻撃に曝(さら)されることになった。
八原の戦略持久は、大本営の無理解と現場無視の干渉にもかかわらず、少なくとも一部はその目的が達成されたと見るべきだろう。
沖縄戦、そして戦後から75年がたった今、八原が残した教訓からわれわれは何を学ぶべきであろうか。