源氏物語と共に

源氏物語関連

蜻蛉まで

2010-02-10 12:02:50 | 登場人物
大塚ひかりさんの訳本は図書館からまだ連絡がなく、
結局最後の夢浮橋までの本を見つけて買ってしまいました。


そして、浮舟をすぎ、宿木、蜻蛉までどっと読みました。


大塚さんの訳の特徴なのでしょうか、
抹香くさいと思っていた宇治十帖が、妙に色っぽい感じがします(笑)


実際に男女の機微というか大人目線が感じられますし、
ある意味で現代的な感覚がします。


この件については電池切れさんも竹河で現代的と指摘しておられます。


一体、あの高貴な方達はどこへ行ったのでしょう?
直接的なもの言いではなく、
言葉の端に匂わせて語っていた光源氏をとりまくあの世界は?


くどくどと内面の言葉を語る若菜以降の現代的な感覚は
わかりやすいといえばそうなんですけれど、
以前の光源氏の世界と何だか違和感を感じました。


そして、蜻蛉までに行くにしたがって、
召人といった人達の存在や、
次第に台頭していくであろう武士のような具体的存在も見られ、
かなり現実的な状況も感じられます。


「どの帝の時代だったでしょうか」ではじまる霞の源氏物語が
一挙に雲の上から、地に落ちた感じがします。
実際に、はしたないとされる食べ物の事も宇治十帖では
少し出てくるのも特徴でしょうか。


しかし、逆に現代でも妙に納得できる感覚が
話として面白いといえばそうなんですけれど。


紫式部は宮仕えで高貴な方達の暮らしに触れ、
一方では一時出仕拒否となりました。
しかし、その後は心を慰め、何も知らないふりをすることで皆と交わり
彰子にまたお仕えして様々なことを見聞きしました。


もしかしたら、道長の召人となったのかもしれません。


源氏物語にはそういう人達の存在も描かれていて、
その人達が言葉を持っています。


浮舟については、匂宮と薫の感覚では、
召人よりは上ですが身分の差で
常に軽んじた存在になっていると大塚さんは指摘されます。
そんな薫の事も色々と解説されています。


また、よく出てくる「子を思う闇」は、
高貴な帝・明石中宮とて同じ人間として
浮舟の母と変わらないという視線があるように思います。


宮仕えで見た高貴な方達も同じだったのでしょうか。
紫式部日記にある
階段ではいつくばる駕籠かきを見る視線と同じかもしれません。


そして、私は何故か蜻蛉最後の薫の歌にひかれます。


『「ありと見て 手にはとられず 見ればまた
  ゆくへも知らず消えし蜻蛉 」 あるかなきか』 (蜻蛉)


世の無常という事でしょうか。「ははきぎ」を思い出します。
「ははきぎ」も、遠くにあって近づくと消えてしまう存在でした。


浮舟の一連の話では、何故か右近という夕顔の巻を思い出すような
同じ名前の人が出てきますし、空蝉の小君と同じ設定の弟も出てきます。


空蝉が逃げたように宇治の大君も薫に気づいて逃げ、
残された薫は中の君と何もなしに過ごすという状況も描かれます。
以前を連想させる事柄が繰り返されるのが不思議に思います。


また、身分の高い皇族がすべてなのかと思うとそうでもなく、
身分の低い所から出世した明石一族は薫の言葉で
「明石の浦は心にくかりける所かな」と持ち上げています。


匂宮は光源氏側で明石一族の家系。
浮舟を取られた薫はいつも負ける頭中将側になりますね。


宇治については昔の悲話がありますので、
それを下敷きにヒントを得たという話もありますが、
今後の浮舟と薫の状況を、
伏線らしき以前の登場人物の同じ名前にしてという所も面白いと思います。


何やら話が具体的で身近になっていく宇治十帖。
仏教関係の言葉に惑わされてはいけないように思います。
そこには現実に生きる人々と同じ感覚があるようにも思いますが。


1000年前も今も、人間は変わらないという事でしょうか。