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エゼキエル書10章

2017年06月13日 05時36分04秒 | エゼキエル書
 一読気になるのは、ケルブとケルビム。聞き慣れないことばである。ケルビムは天的存在の象徴で複数形、ケルブは単数形である。新改訳は単数複数を区別して訳している。口語訳も同じである。しかし単数複数を厳密に区別する習慣のない日本語からすれば、「ケルビムのひとりが、手をケルビムの間から」(7節)と訳す新共同訳の方が自然である。
ともあれ、この手足と、四つの顔(ケルブ、人間、獅子、鷲)を持つ有翼のケルビムと呼ばれる生き物は、旧約聖書では、聖所の付添人、守護者として描かれる。たとえば創世記では、エデンの園において、いのちの木への道を守る存在として(創世記3:24)、出エジプト記では、至聖所に安置された契約の箱を守る存在として(出エジプト25:18-20)、さらに詩篇では、主の御座を支える存在として描かれている(詩篇18:10)。この10章では、神の王座を支え、移動させる存在である。エゼキエルは、この生き物をしばし観察し、これがケバル川のほとりで、つまり第一の幻の内にみた生き物と同じであることに気づいている。彼はこの幻を通して、少なくとも二つのイメージを伝えている。
一つは、エルサレムに対する裁き。このケルビムとともに、先の亜麻布の衣を着た者が現れている。9章では、残りの者を判別し、災いから守る者として描かれていたが、ここでは、他の六人と同じ、裁きの執行者として描かれる存在である。彼は炭火をエルサレムの街にまき散らすように命じられる。ヨハネの黙示録の七部形式の災いが思い起こさせられる。結局七人の天使はみな、刑罰の執行者なのである。彼はケルビムの間から炭火を取り出て行った。それは、BC586年、バビロン軍によって燃やされ火の海となったエルサレム(2列王25:9)を物語っている。つまり、この火の刑罰は、バビロンによってもたらされたようであっても、実際には、神の裁きなのだ、という。
また、これは単なる災いではなく、民の罪を精錬する火によって取り除き、町をきよめるものである(イザヤ6:6-7、マラキ3:2-3)。それによって、きよめられた者が残るためである。「雲」(3節)は主の臨在を表す特別な雲である(出エジプト19:9、40:34-38、マタイ17:5、26:64、使徒1:9)。
第二に、神殿から離れ去った神の栄光である。ケルビムは飛び立った。9:3でケルビムから立ち上って神殿の敷居に向かった主の栄光が、再びこのケルビムの上に戻って来る(18節)。しかしこれは、神殿を離れるためである。彼らは主の宮の東の門の入り口に立ち止まり、それから前に進んだという。つまり神殿から離れていったということなのだろう。実際、8章で見たように神殿には偶像が満ちていた。神はそのような悪を忌み嫌われたのである。主の栄光の臨在が神殿を去ってしまうことこそ、主のさばきの最終的な形となる。
 このように旧約聖書においては、神が、離れ去る、見捨てられる方としてしばし描かれることがある。実際、神はサウル王から離れ去り(1サムエル16:14)、ダビデもまた「私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください」(詩篇51:11)と祈っている。この旧約的観念に縛られ、神に見捨てられる不安を抱きながら信仰を持っている人もいるのではないか。神の前に、失格者であるから、もう先はないとか、神の前に汚れた者であるから、神は栄光を現してくださらないとか。
しかし新約において、イエスは、聖霊なる神は、私たちといつまでも共におられることを約束しておられる(ヨハネ14:16)。神が私たちを見捨てられることはない、私たちを捨て去ることはない。というのもイエスが、私たちの身代わりに神に見捨てられたからである(マタイ27:46)。新約と旧約は矛盾しない。旧約は、私たちと神との難しい関係を示し、新約はイエスの十字架によってそれが乗り越えられている和解の状況を豊かに物語っている。イエスあるが故の私たちである。イエスによる祝福が私たちの上にある。

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