エルサレム再建の預言である。すでにイザヤは、人が神に命じられたとおりに悔い改める力のないこと、また悔い改めを手助けする者もなく、神との間を仲介する者もいない状況にあることを語っている。しかし、神ご自身が、そんな人のもとへと駆け下りてきて、人を救い出される、と語った(59章)。そこで「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ」(1節)と語る。自分の光を放つわけではない。主の栄光を、自らを通して放て、という。
打ち破れた者に何の栄光があるだろうか。堕落し、自ら崩れてしまった者に何の輝きがあるだろう。しかし、神が私たちに栄光を着せてくださる、神が私たちに輝きを与えてくださるのである(2節)。しかも実際に、「目を上げて、あたりを見よ」(4節)という。神は私たちの周囲を動かしてくださる。私たちの絶望的な環境を変えてくださる。捨てられた町エルサレムは(15節)、再び、再興され、世界中から巡礼の人々が集まる所とされる。「ミデヤン」は、南の地方を指し、かつてイスラエルを略奪した民である。その民が今は神を礼拝する者として集められる。また「エファ」はペルシャ湾の東、「ケダル」と「ネバヨテ」は、北アラビヤ砂漠の地方、でありイシュマエルの子孫を意味する。またタルシシュは、スペインのことである。つまりは、エルサレムには、南からも北からも、東からも西からも、世界四方から人々が集まってくる、という。それは、ただ「主があなたを輝かせたから」(9節)という理由による。「実に、わたしは怒って、あなたを打ったが、恵みをもって、あなたをあわれんだ」という神の恵みとあわれみによる。
10節からは、建て直されたエルサレムの町の喜びと繁栄が語られる。かつては、「捨てられ、憎まれ、通り過ぎる人もなかった」(15節)町が「誇られ、喜ばれ、乳を吸われる」(16節)町となる。「青銅の代わりに金を」「鉄の代わりに銀」「木の代わりに青銅」「石の代わりに鉄」は、これまでのイスラエルの歴史を逆行するビジョンである。イスラエルは、ソロモン王の最盛期以降、次々と周辺諸国から略奪され、その神殿や王宮からは金銀がはぎ取られ、青銅の祭壇も石にされた時代があった。まさに「金の代わりに青銅」「銀の代わりに鉄」という時代の流れがあった。しかしそれが逆転する。捨てられ、憎まれ、通り過ぎる人もない、町が「誇られ、喜ばれ、神の愛を受ける町となる、という。
このように読んでみると、この預言はイスラエルの歴史においては終末的な時を覚える内容を含んでいると考えざるを得ない。前半のすべての民が一つにされるというのは、すべての民が散らされたというバビロンの呪いに対照される預言である。後半のエルサレムの栄光、ことに主にある栄光について「主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである」(20節)というのは、まさに、黙示録21章に描かれた終末預言に重なる部分であろう。聖書の信仰は世俗的な意図を超えたものを持つ。私たちの魂が世俗の中で、世俗の平安に執着し過ぎることなく、主の全世界の回復のビジョンを喜ぶものでありたい。
打ち破れた者に何の栄光があるだろうか。堕落し、自ら崩れてしまった者に何の輝きがあるだろう。しかし、神が私たちに栄光を着せてくださる、神が私たちに輝きを与えてくださるのである(2節)。しかも実際に、「目を上げて、あたりを見よ」(4節)という。神は私たちの周囲を動かしてくださる。私たちの絶望的な環境を変えてくださる。捨てられた町エルサレムは(15節)、再び、再興され、世界中から巡礼の人々が集まる所とされる。「ミデヤン」は、南の地方を指し、かつてイスラエルを略奪した民である。その民が今は神を礼拝する者として集められる。また「エファ」はペルシャ湾の東、「ケダル」と「ネバヨテ」は、北アラビヤ砂漠の地方、でありイシュマエルの子孫を意味する。またタルシシュは、スペインのことである。つまりは、エルサレムには、南からも北からも、東からも西からも、世界四方から人々が集まってくる、という。それは、ただ「主があなたを輝かせたから」(9節)という理由による。「実に、わたしは怒って、あなたを打ったが、恵みをもって、あなたをあわれんだ」という神の恵みとあわれみによる。
10節からは、建て直されたエルサレムの町の喜びと繁栄が語られる。かつては、「捨てられ、憎まれ、通り過ぎる人もなかった」(15節)町が「誇られ、喜ばれ、乳を吸われる」(16節)町となる。「青銅の代わりに金を」「鉄の代わりに銀」「木の代わりに青銅」「石の代わりに鉄」は、これまでのイスラエルの歴史を逆行するビジョンである。イスラエルは、ソロモン王の最盛期以降、次々と周辺諸国から略奪され、その神殿や王宮からは金銀がはぎ取られ、青銅の祭壇も石にされた時代があった。まさに「金の代わりに青銅」「銀の代わりに鉄」という時代の流れがあった。しかしそれが逆転する。捨てられ、憎まれ、通り過ぎる人もない、町が「誇られ、喜ばれ、神の愛を受ける町となる、という。
このように読んでみると、この預言はイスラエルの歴史においては終末的な時を覚える内容を含んでいると考えざるを得ない。前半のすべての民が一つにされるというのは、すべての民が散らされたというバビロンの呪いに対照される預言である。後半のエルサレムの栄光、ことに主にある栄光について「主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである」(20節)というのは、まさに、黙示録21章に描かれた終末預言に重なる部分であろう。聖書の信仰は世俗的な意図を超えたものを持つ。私たちの魂が世俗の中で、世俗の平安に執着し過ぎることなく、主の全世界の回復のビジョンを喜ぶものでありたい。