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ピリピ人への手紙3章

2021年07月05日 06時57分07秒 | パウロ書簡
ピリピ人への手紙3章 真の霊的祝福にいたる
1.ちりあくたを捨て去る(3:1-9)
既にパウロは、教会が教会らしくなっていくためには、自分の救いを達成することに集中する、これが大事なのだ、と語っていました。この3章ではさらに、主にあって喜ぶことを語ります。パウロがガラテヤ人への手紙の中で、神が与えてくださった聖霊に従う人生は、実を結ぶものであると語っています(ガラテヤ6:22、23)。それは、神に対して、人に対して、そして自分に対して実を結ぶのです。その中で神に対しては、愛、喜び、平安の実を結ぶ、と言います。神を愛し、喜び、神に安らぐことが起こってくるのです。パウロはそのような実を結ぶことに注意を向けているのです。
どうでしょうか、信仰を持って何が一番大きく変化するか、神との関係に豊かになる、ということではないでしょうか。神の高さ、広さ、深さに目が開かれていく、そして神を喜ぶということが起こってくる。神を信じない人に神を喜ぶなどということは起こりえません。そして次第に、神に安らぐことを知るようになるのです。ですから、パウロは、自分がこれまで自分の安らぎであり、支えであるようなものが一切、無であった、そういうことが大事だと語ってきた偽教師には本当に警戒すべきだった、と語るわけです。
パウロは言います。5節、「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人…しかし、私は自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それらはちりあくただと考えている」と。この世の学歴を誇る、就職を誇る、家柄を誇る、そんなことは実にちりあくただ、と言うわけです。キリストにあることを認められ、神が与えてくださる天来の祝福に目を開かれたら、本当にそうなのだ、というわけです。
2.完成を目指す(3:10-21)
ただパウロは言うのです。「私は、すでに得たのでもなく、既に完全にされているのでもありません。ただ捉えようとして追及している」ほう、そんなに天来の神の恵みは素晴らしいものなのですか。クリスチャンというのは、超越しているのですね。素晴らしいですね。というわけではないのです。むしろ、クリスチャンは、自身の救いを完成させる戦いの最中にあるのです。ですからパウロは言います「私は、自分がすでに捉えたなどと考えてはいません。ただ一つの事、すなわち、後ろのものを忘れ、前の者に向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださっているという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです」と。
大切なのは、やはり、自分自身の信仰者としての現実をしっかり見つめ、理解していくことでしょう。ある意味で他人の信仰などどうでもよいのです。自分自身が信仰的にどこまで到達しているのか。よく理解し、そこからさらに、身を伸ばして先へと進んでいく。というのも、クリスチャンは、この地上に住んでいる者でありながら、その国籍は天にあるからです。この地上にありながら天の御国の住人のごとく生きている。世の中の人が夢中になっているものとは違うものに目を留めながら生きている。神の愛、神の恵み、神の祝福、そういうものをリアルに感じながら生きている。ですから半分棺桶に足を突っ込んで生きていると人は言うことがありますが、言ってみれば、半分天国に足を突っ込んで生きているというようなものでしょう。自分の救いを吟味する、そして何よりも、神を喜ぶ、ここを押さえてキリスト者としての完成を目指したいものです。では今日もよき一日となるように祈ります。

クイズコーナーです。最初に昨日のクイズですが、「パウロは、ピリピ人の手紙を獄中から書いていますが、使徒の働きから考えると最低何回投獄されていると言えるでしょうか。」答えは、②4回でした(ピリピ(使徒16:23-40)、エペソ(使徒18:23-21:17、1コリント15:32)、カイザリア(使徒21:33-23:30、24:27)、ローマ(使徒27:1-28:16、28:30))。では、今日の聖書クイズを一つ。パウロはベニヤミン族の出身でしたが、次の中で、ベニヤミン族の出身ではない人は誰でしょうか。①サウル、②エフデ、③エステル、④サムソン、答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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