【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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エゼキエル書18章

2017年06月21日 05時01分35秒 | エゼキエル書
 2節「父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く」とは面白い諺であるが、エレミヤもこれを取り上げていることから(エレミヤ31:29)、当時広く知れ渡っていたものなのだろう。部族生活における連帯責任を覚えさせるための諺であったようだが、ここでは、エルサレムが裁かれ罰せられているのは、自分たちの犯した罪の報いではなく、自分たちの先祖が神に背いた罪によるものである、という意味で使われている(出エジプト20:5)。つまり神の審判を受けて捕囚の身となりバビロニヤに連れ去られた自分たちの不幸は、先祖たちの罪の故で、自分たちの問題ではないのだ、というわけである。
しかし、3節。「わたしは誓って言う」神の考えは違う。「罪を犯した者は、その者が死ぬ」(4節)。神はいくつかの例を示されて個人的責任を問われる。
一つは正しい者が、善を行い、悪を行わないなら、その正しい者は自分の正しさの故に生きことになる。彼は人間としての弱さを持っているかもしれない。失敗するような者であるかもしれない。しかし、まことをもって神の定めを守り行うのであれば、彼は自分の正しい歩みのために生きるのである(9節)。
また、正しい人の次の世代、つまり正しい人の息子が罪を犯し、悪を行うなら、父親とは無関係に、その息子は罪の責任を問われることになる(10節)。「その血の責任は彼自身に帰する」(13節)。たとい、父親が信仰深く熱心であったとしても、それによって子が救われるわけではない。
14節、悪い息子の息子、つまり5-9節の正しい人の孫にあたる者の場合はどうか。これもその人個人の責任が問われる。父親の悪にも関わらず、子が正しい生き方をするのであれば、彼はその正しさの故に生きると。彼は父の罪の責任を問われるのでもなく、祖父の善行の故に生かされるわけでもない。彼自身が神の前にどうであるかが問われる。
以上は、従順な王ヨタム(2歴代27章)、不従順で邪悪な息子アハズ(2歴代28章)、従順で改革者となる孫ヒゼキヤ(2歴代29-32章)、に例証されるものである。
親子3代の例をあげて、個人に対する神の裁きの原則を語った後で、エゼキエルは、21節後半から、悪者に対する福音を語る。悪者は悪者としての報いを受ける。これが原則である。しかし、悪者であっても、自分の非を悟り、罪を悔い改め、正しい人となって公議と正義を行うなら、彼は必ず生きて死ぬことはない、という。彼はその正しさのために生きる、という。逆に24節、正しい人が、その正しさを捨てて、神への反逆を重ねるのならば、彼は生きることができない、と。神の報復は個人に対するものであるが、個人の姿勢いかんによっては、変更可能である、ということだ。つまり、人は先祖の罪から自由であるばかりか、自分の過去からも自由になれるのだ。主は悪者の死を喜ばず、彼が悔い改めて生きることを喜ぶのだ。
 実に素晴らしい約束である。イエスの弟子たちが、ある盲人の前で、この人が盲目に生まれついたのは、この人が罪を犯したからか、それとも先祖が罪を犯したからか、と尋ねたことがある。それに対してイエスが語ったことは、この人でも先祖でもなく、神の栄光が現れるためである、であった。神のみこころは、一人一人が、神を認めて生きることにある。悔い改めが必要であれば、悔い改めて正しきに生きることである(30節)。そして新しい心と新しい霊を得ることにある(31節)。そのようにして、個人が神の前にあって正される時に、神の民全体の生活も高められることになる。
 以上の悔い改めは、捕虜として連れ去られて来て生きながらえている人々に向けて語られた。今の自分に悔い改めなど必要はないとすら考えている者に向けて語られた。神に心探られ、神の正しさにこそ生きていく者であろう。


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