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人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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ホセア書6章

2011年02月03日 06時42分57秒 | 小預言書
「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」(1-3節)。実に慰めを与えることばである。そうだ、立ち返ろうという気にさせてくれる。神の裁きは手厳しいが、神のあわれみも大きい。神は私たちを回復させてくれる、確かに大きく憐れんで赦してくださる、と。しかし、これはイスラエルの民のことばである。
つまり、真実な悔い改めのことばではない。むしろ、神を欺く巧言なのである。自分の罪の深さを理解しようとせず、ちゃっかり神の恵み深さにあやかろうとしている。私たちにはそういう内面的な区別はつきにくい。しかし、神は心を見られるお方であり、騙されることはない。だから神は言う。
「エフライムよ。わたしはあなたに何をしようか。ユダよ。わたしはあなたに何をしようか。あなたがたの誠実は朝もやのようだ。朝早く消え去る露のようだ。それゆえ、わたしは預言者たちによって、彼らを切り倒し、わたしの口のことばで彼らを殺す。わたしのさばきは光のように現れる。わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」(4-6節)
神は、朝もやのような誠実さ、朝露のように消えやすい、私たちの忠誠心を見抜いている。私たちには、神を喜ばすのに、口先ばかり、形式ばかりの現実がある。そういう意味では、形式だけの礼拝があるし、形式だけの信仰というものがあるだろう。神を信じているとは言いながら、言葉も行動も、生活も、全く世の中の人と変わらない現実というものがあるだろう。実際、「彼らはアダムのように契約を破り、その時わたしを裏切った。ギルアデは不法を行う者の町、血の足跡に満ちている。盗賊が人を待ち伏せするように、祭司たちは仲間を組み、シェケムへの道で人を殺し、彼らは実にみだらなことをする。」とあるように、人はいとも簡単に神の戒めを破ってしまう。しかもその程度は、甚だしかったりする。シェケムは逃れの町と言われる場所で、殺人を犯した者が正しい裁きによって裁かれるために、かくまわれる場所であるが、そこに行く途中で、祭司たちに復讐の報いを受けるという。神の戒めも何もあったものではない。
悔い改めは、真実さを要求される。新しい歩みは単なる思い立ちとは違う。心をしっかり定めて、神の道を歩み続けることに他ならない。困難があればすぐつまずいてしまう。すぐ泣きが入ってしまう。すぐ安易な解決に向かうのが私たちの心ではあるが、何か一つ、神への忠誠のしるしとして、拘って、従ってみてはどうだろうか。礼拝だけは必ず守る。心から礼拝をささげる。あるいは、朝毎のディボーションは毎日10分、聖書を読み祈る、これだけは必ず守る。そして単に形式ではなく、そこで神の声を聴くように、心をこめてその時間は聖別する。朝もやのようではない忠誠心、また形ではない忠誠心、心から神を愛することに拘って、今日も歩ませていただこう。

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