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イザヤ書18章

2017年02月18日 05時41分17秒 | イザヤ書
クシュはエチオピアのことである。「羽こおろぎの国」は、羽こおろぎが多く生息している国、つまりエジプトを象徴する。BC715年、エチオピアはエジプトを征服、第25王朝を開いたので、同じことを言っており、活発に人々が行き交う大都市をイメージしている。「背の高い、はだのなめらかな国民」も、エチオピア人のこと。彼らは古代世界では背の高い民族として知られていたからである。ただし「なめらかな」と訳されたことばは、「先のとがった光る剣が、いつでも使えるようになって磨き上げられている状況」を意味するとも言う。戦いのためによく武装されていることを示唆している。つまり、このエチオピアは、エジプトを支配するやいなや、直ちに世界の覇者になるため反アッシリヤ同盟をつくろうと使者を諸国に送った。その使者はエルサレムにもやってきた。彼らはまさに戦いのためによく武装された同盟国にふさわしいように見られた。しかし、イザヤは、神のことばを伝える。このような騒乱に巻き込まれてはいけない。人間の世に常なる空しい一時の騒乱である、という。アッシリヤは、神ご自身が裁かれるのであるから、アッシリヤの侵略を防ぐために、エチオピアと同盟を結ぶにはおよばない、と(3節)。人間的には得策に見えることがあっても、神が意図されないことは、起らないのである。
神が、静まっておられるように見える時も(4節)、夏の照りつける太陽や朝の露のように、時間が止まったかのような振る舞いをしておられるとしても、それは神が手をこまねいているわけではない。それはむしろ、「刈り入れ前」の静けさである。鎌を入れるちょうどよい時を待っておられるだけである。
海に沈む夕日を見ていると、海に日が接するまでの時間は、ものすごく長いように感じさせられるが、一旦夕日が水平線に接すると、あっという間に沈むように見えてしまう不思議がある。同じ速度で動いているはずなのだが、全くもって不思議な現象である。神の時も同じで、時が来ればあっという間にそれは動き始める。一挙に事はなされる。こうして、エチオピアは、アッシリヤを打ち砕く神を認め、イスラエルに同盟を求めるのではなく貢ぎ物を携えてくるようになる、と預言される。
 分脈としては、17:12-18:7を一つの区切りとして読むべきなのだろう。14節は、具体的にセナケリブのエルサレム攻撃を指している。彼らは、エルサレムを飲み尽くす勢いであったが、神の不思議な介入によって、退散させられた(2列王19:35)。
今の現実を見ながら、起り得ぬとすら思われることを信仰的に捉える力が試される。信仰的に物事を考える力の成熟が問われている。人は目先の現象を見て、最も良いと思われる動きに心を動かされやすい。しかし物事は目先の現象のみで決まるわけではない。背後におられる神の意思にすべては支配されている。仮に、どんなに情勢が右に動いていくように見えても、神がお許しにならないのであれば、右には動かない。また右に動いたとしても、それは土壇場で覆されてしまう。目に見えない神のご意思を見定めることが、何事においても得策であり、神を信じる者のなすべきことである。

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