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雅歌6章

2013年10月28日 06時01分42秒 | 雅歌
<朝のディボーション>
 シュラムの女は、夜の町に出かけ、愛する者を捜した。そんな女の一途さに、エルサレムの女たちが「一緒に捜しましょう」(1節)と申し出ている。一体どこへ行ったのか。シュラムの女が答えている「私の愛する方は、自分の庭、香料の花壇へ下って行かれました」愛する者が行く、行き先は知っている。きっと自分の庭だろう、という。
これは、5章の続きで、夢を思い出している箇所と考えるのがよいのだろう。夫が自分の家に近づいた時に、それを拒絶したことに、良心の痛みを覚えながら思い出している場面である。自分の我儘ぶりに対する反省である。
いささかへこんだ思いになっている女に対して、4節から、男の応答がある。それは、4:1-3の繰り返しのようでもあり、女の美しさをたたえている。ティルツァは、ヤラベアム1世からオムリまで約50年北王国イスラエルの首都とされた場所である。水量が豊富で果樹園や庭園の多い、美しい町であったという。またエルサレムも力と美しさの象徴である。「旗を掲げた軍勢のように恐ろしい」(4節)、新改訳も新共同訳も一致して同じように訳すが意味不明である。直訳は、「旗をかざしたように」であり「軍勢」は不要である。分脈からすれば女が見るも美しく飾られていることを意味するのだろう。ティルツアもエルサレムも同じように取り上げられる部分からすれば、この雅歌が執筆されたのは、やはり分裂王国時代前のことなのだろう。「王妃は60人、そばめは80人」(8節)。ソロモンならではの、しかもソロモンの初期の治世を背景としていることばのようにも思える。
ともあれ、夫は、女の冷たい仕打ちを赦しているのである。愛は実に不合理である、と思わされるところではないだろうか。
<夜のディボーション>
 11節からは女の応答となっている。⒓節、「私は民の高貴な人の車に乗せられていました」夫が、女を受け入れていることに、女は喜びを抑えきれない。実際に車に乗った、というのではなく、そのように感じている、ということなのだろう。こうした流れからすれば、先の5章での議論は、2人説に絞られてくる。6章は、ソロモンとシェラムの女のもの対話と理解されるのである。
ともあれ、6章の大きな筋書きを押さえるとそうなるのだが、この章で教えられるところは、やはり、愛は不合理なものである、という点ではないだろうか。愛は、見返りを期待しない。愛は、計算づくめではない。愛は理性的な対応を超えたものである。
神が私たちを愛することも同じである。神が人の罪を赦され、受け入れるというのは、あれやこれや小さな罪を一つ一つ数え上げて、赦しましょう、ということではない。もはや、過去も現在も未来もひっくるめて、私たちを丸ごと受け入れてくださった、ということに他ならない。人の想像を超えて文句なしに受け入れてくださった神の愛に思い至らなければ、真の解放もありえない。一々自分の失敗や罪、愚かさや不足を覚えてくよくよすることになる。神の深い愛に気付かせていただく一日であろう。

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