エペソ人への手紙2章 キリストにある新しい状態
1.神との関係が回復される(2:1-10)
昨日に続いて神の与える霊的祝福について考えてみましょう。それは、私たちに何をもたらすのか。まず神との関係を回復させます。パウロは、人は霊的に死んでいたのだ、と言います。人は地上のお金にはよく反応しますが、目に見えない霊的な事柄には無反応です。霊的に病んでいたというのではなく、死んでいたのです。ですから人は神を認めることもできず、結果、世の流れに流されるままの人生を生きていました。死んだ魚が川に流されていくように、人は、この世がよいと宣伝するもの、よい家、よい車、よい学歴、よい地位、声のでかい人に引っ張られて生きていたのではないでしょうか。それは、やみの力に振り回される人生であるし(2節)、肉の欲の赴くままの人生である、とパウロは言います。こうして人は、「生まれながら(神の)御怒りを受けるべき」者だったのです(3節)。
ところが、このように、弱く、不敬虔で、罪人であり、神の敵ですらあった人を、神は愛してくださっていたというのが、2000年前の十字架でした(4節)。イエスは、罪の中に死んでいた者にいのちを与え、神との関係を回復させようとされましたし(5節)、人をご自分と一緒にあるもの、友とすることをよしとされました(6節)。このイエスの愛の業を、信仰をもって受け入れていく人は、救われた者なのです。善い行いを積み重ねるのではなくて、ただ神が私たちになさってくださったことを信仰によって受け入れていくこと、つまり信じることがその人を救うのです。クリスチャンになるというのはよい子になることではありません。それはあくまでも結果です。クリスチャンにとって大切なのは、神の恵みを認めること、神の恵みを受け取る心を持つことです。
2.人との関係が回復される(2:11-22)
そのように神との関係が回復されるなら、人間関係もまた正されていくのです。まず、人は、ユダヤ人から見れば無割礼の者と呼ばれるような、つまり神とは関係のない人生を生きていた者です。たとえ宗教を信じていたとしても、それは異教的信仰であり、まことの神を信じているのではない、というわけです。けれども、キリストが、その異教徒にまことの神の信仰をわからせてくださったというわけです(13節)。こうしてユダヤ人もユダヤ人でない者も、キリストによってまことの神を知るに至り、まことの神のもとに一つとされる、まさに民族的な壁を破って、全人類皆、同じ神の下にある兄弟姉妹であることを教えてくれたわけです。もはや中国人もアメリカ人も、日本人も、キリストを通して、同じ神に近付き、皆一つの神の家族、敵ではない身内であるという心を持って、神の平和に与るわけです(16節)。
この世の世界は争いに満ちています。職場にも家庭にも争いは絶えません。そして残念なことに教会にも争いはあるものでしょう。教会は、嵐の避け所、心の安らぎの場であるはずなのに、コリント人への手紙で学んだように、パウロの時代も教会は荒れていました。しかし、それはせっかく神を知る恵みに与った人々が、再び迷い出た結果でした。クリスチャンも色々です。クリスチャンなのに、と批判されても、クリスチャンは皆同じではないのです。ですからパウロは、クリスチャンの中にあって、聞く耳のある者に言うのです。22節「あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、神の住まう教会を教会として建て上げていきなさい、と。では今日もよき一日となるように祈ります。
クイズコーナーです。最初に昨日のクイズですが、「パウロがエペソで、約2年にわたり伝道活動をしたのは、第何回目の伝道旅行の時であったでしょうか?」答えは③第三回目でした(使徒19:1-20)。では、今日の聖書クイズを一つ。ユダヤ人と異邦人、人類を二分する隔ての壁を打ち破るものは何であるとパウロは語っていますか?①平和条約を結ぶこと、③平和運動を行うこと、③キリストの十字架愛に生きること(エペソ2:16)、答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。