【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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エゼキエル書32章

2017年07月05日 07時52分01秒 | エゼキエル書
「第12年の12の月の1日」、つまりBC586年3月、ちょうどエルサレムが陥落した報がもたらされて二か月後のことである(33:21)。バビロンによって滅ぼされたエジプトに対する哀歌が歌われた。エジプトは、川の中で暴れ回るわにのようである、という。その権力を誇り、この世界を我がものにしている、そんなエジプトが、神の網に捕らえられ、捕獲され、弱らされて死に絶えることが預言されている。
この哀歌は2年前に語られた預言(29:1-16)と似ているが、単なるその繰り返しではない。というのも、語られた状況はまるで違うからだ。この時、かつての預言は現実のものとなり、捕囚の民は失意の中にあった。イスラエルの民は、エゼキエルを通して語られた預言の言葉が確かであったことを悟らざるを得ず、神のさばきの確かさと厳しさを覚えながら、この哀歌に耳を傾ける状況にあった。
「わたしが、諸国の民、あなたの知らない国々の中であなたの破滅をもたらすとき、わたしは多くの国々の民の心を痛ませる」(9節)。神の裁きの厳しさに、多くの人々が驚愕する、という。確かに、当時の繁栄の中で、誰がこれだけの歴史を誇り、これだけの権力を持ったエジプトが滅びると考えたであろうか。
 そういう意味では、今の日本も例外ではないのかもしれない。天地創造のまことの神を認めようとしない日本。自分たちの造り主を認めて、その神の前に謙ろうとしない日本が、なぜ神の裁きを受けることなく、存続し続けているのか。それは一重に悔い改めのためであり、神の忍耐のためである。
 17節、エジプトへの哀歌が語られた15日後。エジプトはよみにくだる、と預言される。 これはエジプトに対するさばきの預言の7番目にして、最後のものである。エジプトは、他の滅亡した国々とそこで一緒になるという。
 17節、新改訳は「第一の月」と訳すが、新共同訳では「その月」つまり同じ12月であるという意味で訳している。ヘブル語原文は、何月であるという記述はなく、「月の15日」となっているから、新共同訳は、ヘブル語原文通りに訳したのであり、新改訳は、ヘブル語のギリシャ語訳である70人訳の解釈を取ったためである。特にこの箇所を「第一の月」と訳さなくてはならない理由も考えつかない。新改訳は、単に口語訳に引っ張られただけなのかもしれない。「第12の月」(BC585年3月)と同じと考えた方がよい。
 ともあれ、エジプトは、「アッシリヤとその全集団」(22節)と同じ運命を辿るのであり、「エラム」(24節)「メシュクとトバル」(26節)、「エドム」(29節)、「シドン」(30節)と滅びた弱小国と一緒くたにされるという。かつては歯牙にもかけなかった弱小国と同じ運命を辿るとは、実に不名誉な結果である(30節)。しかし、それはよみにくだったのが自分たちだけではない、という皮肉な慰めでもある、という(31節)。大切なのは、主が全ての国を御手の下に治めておられる主権者であり、主の回復の約束は何物にも妨げられることのない信仰である。事実、契約の民イスラエルは「よみ」に置かれておらず、回復される、と語られる。
 今の日本が滅びても、客観的に見れば、一つの文明が滅びたということでしかない。私たちが、マヤ文明の滅亡を、歴史の興亡として眺めているようなものだろう。そういう意味で、私たちも神の目には、皆地の塵に等しい存在であり、他の国々と変わらないものである。神の前に、日本も世界の国々の一つでしかない。日本もまた、その傲慢さの故に、いつでも、神の裁きに倒れ伏すような国でしかない。だから私たち一人一人が神の前に謙って、人間がいかに生きるべきものであるかを聖書から教えられなくてはならないのだ。宗教を信じるのではない。人間がいかにあるべきかを、神に教えていただくのである。しばし、神のことばに、自身の人生を振り返る時を持ちたいものである。

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