8章 勇気を出せ
おはようございます。ゼカリヤが幻で語ったことは(1-6章)、もはや明確なわかりやすいことばで語り直されます(7-8章)。主にある喜びが再興される、これが目標です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.エルサレム再興
7章に引き続いて、断食についての問答が繰り返されます。ただ7章では、イスラエルの民の過去の在り様が指摘され、それは消極的な面に注目するものでした。しかしこの8章では、むしろ積極的な面が語られます。つまり、ゼカリヤの言葉を聞いた者たちは、自分たちの国が滅んだのは、先祖の罪と不従順の故であることを悟り、暗澹たる思いになっていたことでしょう。その民に、神は、深い愛を告白し、後のものを忘れ先に進むように、新しいビジョンを指し示されるのです(2節)。
というのも当時、希望に胸を膨らませ、祖国エルサレムの町の再建へと捕囚の地バビロンから戻ってきた人々の目に映ったものは、想像を絶するほどに荒れ果て廃墟と化していたエルサレムでした。そこには、十分な食糧も、水もなかったことでしょう。再建の厳しい現実の前に、人々は、果たして神が約束されたようにこの町を建て直すことは可能なのかと、心折れる思いになっていたと思われます。その彼らに幻で象徴的に語られたことは(1-6節)、もはや、覆いを剥がすかのように、再びわかりやすいことばでストレートに語られる必要がありました。そこでまず神は、ご自分がエルサレムに戻ってきて「エルサレムのただ中に住む」と明言するのです(3節)。そしてエルサレム再興のビジョンを掲げます(4、5節)。「都の広場は、男の子と女の子でいっぱいになる。子どもたちは、その広場で遊ぶ」エルサレムの活気に溢れた日常性の回復、そのイメージは、彼らの気持ちを引き上げたことでしょう。「もし、これがその日に、この民の残りの者の目に不思議に見えても、わたしの目には不思議に見えるだろうか」人間には全くもって不可能と思われることも、神にはそうではないのです。
2.喜びの再建
そこで9節、「勇気を出せ」と神は言います。ヘブル語の直訳は、「あなたがたの手を強くせよ」です。手を強くして再建を完遂せよ、と言います。先の幻が語られてから、既に2年経過していました(ゼカリヤ1:1、7:1)。神の後押しがあるというのに、手をこまねいている時ではありません。滅びも神から出たことであれば、再建の祝福も神から来るのです(15節)。神を信じて進むのみでしょう。
そして7章で提出された断食についての質問に、神が明確に答えています。民が形式的に守ってきて、これ以上続けるべきかどうかと考えた断食が、楽しみと喜びの例祭となる、と。コロナ禍で反省させられたのはこの点でしょう。礼拝が儀礼的な習慣であることを超えて、神を喜ぶ時となっているかです。そして周囲の人々が「私たちもあなたがたと一緒に行きたい。神があなたがたとともにおられる」(23節)私たちの喜びが人々を惹きつけるのです。コロナ禍ももうすぐ終わると考え、新しい喜びに満ちた礼拝の再興を目指してまいりたいところです。共に神のお約束を信頼し、私たちの心を整えさせていただきましょう。