6章 真の悔い改めへの呼びかけ
おはようございます。人が物をもらって嬉しく思うのは心遣いを感じる時でしょう。神をよく知り、神の心に触れる信仰生活が求められていることです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.悔い改めのススメ
1-3節の「私たち」を主語として語られる数節は、誰のことばなのか、議論のあるところです。これをギリシア語七十人訳のように、国家壊滅の危機に際して、祭司が、献げようとした悔い改めの祈祷文と解釈するか、あるいは、ホセア自身の悔い改めの勧めの文章と理解するか、判断が難しいからです。どちらにも取れる内容ですが、イスラエル民族を代表する祭司の悔い改めの祈祷文とすれば、それは神を欺いた祈りとも受け止められます。というのは、ホセアの断罪のことばに対して、自分の罪をよくよく理解しているわけでもなしに、形ばかり悔い改め、神の恵み深さにあやかろうとしているとも受け止められないからです。実際、4節以降は、イスラエルの頑な現実を熟知している神の応答と見ることができます。しかし、ホセアの悔い改めの勧めであると見ることもでき、そうであるとすれば、4節以降は、神がホセアに共鳴して、イスラエルを説得している、と受け止めることができるでしょう。
2.神を知ろう
神は、決して騙されないお方であり、イスラエルの朝もやのような誠実さ、朝霧のように消えやすい忠誠心をよくわかっておられます。神を信じることに深さがない。神を信じていることは、その人の口、目、手、足にすべて現れてくる、つまりその人の生活によって知られるものですが、そうとはならない現実があります。確かに、神を信じている、神が大事だというのなら、どうしてこのような行動を取るのか、と思う人はいるものです。結局、天地創造の主権者である神を信じているのではなく、便利屋の神を信じている、と言うべきでしょうか。だから、自分の都合に合わせて祈りが献げられたり、聖書が開かれたり、礼拝に行くことになったりします。つまり、神ではなく自分が中心にある信仰なのです。
7節、シェケムは逃れの町であり、殺人を犯した者が復讐者から守られて、正しい裁きによって裁かれるために、匿われる場所です。律法によれば、祭司は、その逃れの町に向かう犯罪者たちを保護しなくてはなりませんでした。しかし、その祭司が、神の定めに従わず、復讐者になるわけです。神のことばを語り、従うように勧める祭司がこのような現実なのです。一事が万事、すべてこの調子、神は「イスラエルの家におぞましいことを見た」と言うわけです。
悔い改めは、口先のことではなく、人生の方向転換を意味します。それは、古い行いを捨てて、新しい行動を起こしていくことです。しかしどうして、真実の悔い改めが起こらないのか。鍵となることばが、3節、6節の「神を知る」ということでしょう。主権者である神を知ろうとしない、これが神と人の関係を表面的なものとするのです。クリスチャンとしてどうあるべきかを知るのではなく、神ご自身を知るように努めるのです。主を知ることを切に追い求める、そこに悔い改めの実も結ばれるのです。神ご自身に心の目を向けましょう。