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民数記20章

2022年02月10日 07時06分22秒 | 民数記
20章ミリアムの死,メリバの水,アロンの死
1.モーセと争ったイスラエル(20:1-13)
20章をもって、古い世代の放浪の旅についての記録が終わります。しかしその締めくくりにおいても、イスラエルの民は、水のないこと、未来が開けないことでつぶやき、モーセやアロンと争うのです。ただ、この物語は、出エジプト17:1-7に記された物語と非常によく似ています。そこでこれらは同じ出来事であると説明されることもありました。しかし、出エジプト記では、モーセだけが非難されていますが、民数記ではイスラエルの民はモーセとアロンに対抗しています。また民数記の物語は、既に何等かの裁きが起こっていたことを前提にしています(20:3)。また、ここでモーセは、もはや民の側に立つ仲裁者ではなく、民を「逆らう者たちよ」と呼び、腹正しく岩を二回叩く、傲慢な指導者となっています。彼のこの態度には、神も異議を唱え、罰を受けるべきものとされています。つまりこれらの物語は、全く別物と考えてよいのでしょう。
実際、ここで注目すべき点は、不信仰な民ではなく、神に栄誉を帰すことのなかった指導者モーセです。詩篇106:32、33では、モーセが「軽率なことを口にした」と説明されています。モーセに求められたのは、単純な従順でした。モーセにしろ、色々と言い分けしたいことはたくさんあったはずです。しかし、神はその一度の行為をとがめられ、モーセもまた約束の地に入ることができないことを宣告されています(12節)。実に手厳しいようにも思われますが、15章の流れからこれを考察するなら、実にその重要さが理解されます。
2.民の咎を負うモーセ
というのも、既に述べたように、祭司は、神の怒りの防波堤、結界となる存在でした。彼は、神に近づく特別な任務を与えられ、またその生活もその働きによって保障されましたが(18章)、それによって聖所と祭司職に関わる咎をすべて負わなければならない、と明言されています(18:1、2)。それはモーセも例外ではなく、18章で語られた具体例がここで取り上げられた、と理解すべきなのでしょう。主にある指導者は、司令官ではなく養育者で、常に神と共に生きながらも、神の民の側にあって仕える者です。そのような意味では、主にあって働くすべての働き人も同じであり、教職者と呼ばれようが、信徒と同じで、キリストにあって罪赦された一人の罪人として、その弱さの中にありながら、神の働きに立っていく者に過ぎない。そこを忘れて、何か民の上に立つ者、上から目線の者となっていく危険性があるのです。主の働き人は、民の罪の責任を負う者であることを忘れてはなりません。イエスは、まさに十字架において、私たちの罪の責任を負われましたが、イエスのしもべはそれ以上でもそれ以下でもないのです。
そのような意味では、私の場合は、神がモーセに厳しくあられたように、私にもそうであるなら、当の昔に自分はいなかっただろう、と思うことがあります。まさに神の哀れみによって、その働きを支えられ続けてきたし、分相応の扱いを受けてきたと思うところです。
3.エドムの拒否(20:14-21)
さて約束の地カナンはいよいよ目前に迫っていました。イスラエルの民は、大まかに三つの旅を続けてきました。紅海からシナイまで(出エジプト13-19章)、シナイからカデシュまで(民数11-12章)、そしてカデシュからトランス・ヨルダンまで(民数20-21章)というように。この最後の旅において、彼らはエドムの領地を通ろうとしましたが拒否され、迂回しています(21:4)。イスラエルがカデシュからモアブの地までどのような行程を辿ったのかは、今日明らかではありませんが、彼らは、エドムを通ることができませんでした。エドムはヤコブの兄弟エサウの子孫です。ですから血族的にはイスラエル人と親戚関係にあるのですが、彼らはイスラエルを歓迎しませんでした。このように神の御心に従いつつも、期待はずれの事態ということはあるものでしょう。しかしそこに、神のみこころに従う訓練があるものです。神のことばに従い、自分の肉の思いをそぎ落とし、神のしもべとして鍛錬されていく訓練があるのです。
4.アロンの死(20:22-29)
アロンの死が語られています。アロンとモーセは、メリバで犯した罪の故に、約束の地カナンの安息に入ることはできませんでしたが、神の安息の中に、神の民の中に加えられました。また同時に、イスラエルの最初の大祭司の死は、一時代の終わりを告げていました。それはイスラエルの新しい出発を象徴してもいました。さらに彼の死は、ある種の罪の贖いをするものでした。実際、殺人の嫌疑をかけられ逃れの町に監禁されていた者は、大祭司が死んだ時に釈放されました(民数35:28)。ここから万人の大祭司としてのキリストの死を考える時に、それは、新しい時代の始まりを告げ、さらに、私たちの完全な救いをもたらす、アロンの死に優るものであったことを思わされるところです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。よめの水をつくるために、赤い雌牛を焼くときに、一緒に焼却する三つのきよめを象徴するものは何でしょうか。三つあげなさい。答えは、杉の木、ヒソプ、緋色の糸でした。では今日の聖書クイズを一つ。エドムとモアブの領地を分ける自然境界となる川の名はなんでしょうか?答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。

<天草さんのフォローアップ>
パスターまことの聖書通読一日一章をフォローし、さらに掘り下げにチャレンジしている、天草さんのサイトはこちら⇒「天草幸四郎」http://progress-to.jugem.jp/
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