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民数記28章 聖なる会合を開かなければならない

2022年02月18日 06時58分52秒 | 民数記
28章 二回目の訓示、ささげ物の定め(安息日,月の第1日,第1の月の14日,初穂の日)
1.これまでの流れ
 無為無目的な旅が終わり、新しい一歩が踏み出されました。アロンが死に、新しい大祭司エルアザルと新しい指導者ヨシュアが任命され、約束の地に入るための準備が再開されました。まず、戦力を確認し、占領地の分配を計画するための人口調査がなされています(26、27章)。そして本章から、約束の地で新しい世代が、神の民として生きるための基本的な教え、礼拝的生活の確認がなされるのです(28-36章)。
2.28章のメッセージ
そこでまず、ささげ物について教えられます。これは既にレビ記23章において述べられているものを詳しく述べるもので、28、29章の二章に渡って記されています。一言でまとめると「礼拝を中心とする生活」を大事にする、と言うことです。ですから毎日(3-8節)、毎週(9,10節、)、毎月(11-15節)、そして特別な祝日ごと(28:16-29:40)にささげ物を献げ、礼拝するようにその詳細が明らかにされます。これまでささげ物については、出エジプト記、レビ記でもとりあげられてきました。出エジプト記では、毎日献げるささげ物について述べられています(29:38-41)。また、レビ記では、ささげ物の種類とその具体的な献げ方(1-7章)、そして特別な日、いわゆる主の例祭のささげ物について説明されています(23章)。この民数記28、29章では、ささげ物の年間スケジュール、つまり一年間の年中行事として何をどの程度、献げるべきか述べられています。ですから一般信徒が、罪、汚れ、誓願、あるいはその他の理由によって献げるささげ物は、これに加えられるものです(29:39)。
 そして、27章のツェロフハデの娘たちの土地分配の問題が、将来的なことに関連して起こってきているように、この28、29章も、将来的なこととして書かれています。イスラエルは、今荒野を彷徨う遊牧民から、カナンに定住する農耕民族に生まれ変わろうとしていました。ですから、ささげ物について語る民数記の15章、そして28、29章では、ささげ物と同時に献げるべき農作物が加えて説明されているのです。そして、ここに記されているすべてのことを行うには、それ相当の収穫が予測されます。実際、計算してみると、祭司はイスラエルの民のために、毎年113頭の雄牛と32頭の雄羊、1,086頭の子羊をささげ物とし、さらに1トン以上の小麦粉と瓶1千本の油とぶどう酒を献げなければなりません。これができるということは、神の祝福は確実なのであって、となれば、神の祝福に感謝し、神の支配を覚えて歩む礼拝的生活、つまり朝毎に夕毎に礼拝を献げる生活に生きることも当然なのです。それは、私たちにも言えることでしょう。
3.ささげ物の意義
 ともあれ、基本的に毎日献げられるのは、全焼のささげ物、穀物のささげ物、そして注ぎのささげ物です。そこに、毎月あるいは特別の機会に、罪のきよめのささげ物が加えられます。
 ただ、毎回動物を殺し、血を流す、おどろおどろしい光景が、現実には繰り広げられるわけです。礼拝というのは、礼拝を献げる対象の主権を認める行為ですが、何もここまでおぞましいパフォーマンスをしなくても、という印象はあるでしょう。しかし注目すべきは繰り返される「芳ばしい香り」(8、13、13、24、27節)という考え方です。基本的にささげ物は、人間の罪によって引き起こされた神の怒りを宥めるためのものです。それは、礼拝者の身代わりとなり、礼拝者に罪の赦しを与えます。罪が赦されるというのは、ただではないということです。そしてこれは、新約聖書に語られるキリストの十字架にある罪の赦しを説明する象徴となるものでした。つまり、イエスは「世の罪を取り除く神の小羊」と語られたように、神の怒りを宥め、人々に罪の赦しを与える、人類の歴史においてただ一度限りの、永遠に効力を持つささげ物で(ヘブル9:26)、その必要性を教えるものであったということです。ユダヤ人は、ローマ帝国がエルサレムの神殿を破壊したAD70年以降、神殿でささげ物を献げることをしなくなりましたが、その前に起こった歴史的事件、イエスの十字架の死は、実質的にすべてのささげ物を不要とし、これを廃止ししていたのです。
こうして現代において、私たちはささげ物を献げる礼拝はしません。しかし、朝毎に永遠に献げられたささげ物であるキリストの御名によって神に祈り、神に近づき、神の主権を認め、その日の生活をスタートし、夕毎に、同じように神の主権を認めて一日を終える生活をするのです。「まことの礼拝者たちが御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます」(ヨハネ4:23)とイエスは教えられました。御霊というのは、神の霊によって、という意味です。では真理とは何か。これはよく誠実さとか、真心からと置き換えて理解されてきました。しかしこれは文字通り真理であるキリストによってと言うことでしょう。キリストの御名を呼び、キリストの犠牲によって私は恐れ多くも神の前に出ることが許されているという確信をもって、ということです。礼拝的生活の中心にキリストのささげ物があるのです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。神の意思をうかがう時に祭司が用いたウリムとトンミムは、通常どこにしまわれたでしょうか?答えは、さばきの胸当てです(出28:30、レビ8:8)。ウリムとトンミムの詳細は不明ですが、一種のくじのようなものであったと考えられていて、これによって神の意思が確認できると信じられていました(民数記27:21)。では今日の聖書クイズを一つ。注ぎのささげ物としての強い酒は、子羊一匹につきどのくらいの量が注がれたでしょうか?答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

<天草さんのフォローアップ>
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