いのち短し 恋せよ少女(おとめ)
朱き唇 褪せぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものを
(『ゴンドラの唄』)
黒澤明監督の映画「生きる」のシーンで使われたこの歌。
この歌が美しいのは、「いのち短」い「少女」を詠っているそのなかに、いきることの本質みたいなものを感じるからかもしれません。
生きるといえばテリーとドリー。
生きてるってなんだろ、生きてるってなあに?
いーからいーから~、テリーを信じて~
違いますね。すいません。懐かしいです。
こんにちは。H田図書館館長のH田です。
タイトルは、お勧めの漫画です。貸し出し希望は館長まで。
最近、なんだか7th forestとwest tailが忙しいらしいです。
おそらく水曜前がやばいらしいです。経験者は語る。
プログラミングの宿題は、日曜日が試合でつぶれ始めてからが本番です。
一週間に二回くらい来てたら褒めてあげてください。
N森といえば、すうがくが大好きらしいです。
高校時代積分の問題を解いているとき、感動しすぎて涙を流したこともあるとか。真性です。
今まで内緒にしてきましたが、僕もすうがくが趣味です。嘘です。別に内緒にしてませんでした。
すうがくはいいものです。
この前、集合論の本を読んでいたらしみじみ感じたことがあります。すなわち、
無限はイデアの中でのみ存在し得る
ということです。
この広い宇宙も、高々有限でしかありません。
今も空間で素粒子の対生成・対消滅が起こっていて、それは一見無限に見えますが、
時間と空間が有限であると仮定するならば有限です。時間が無限だとしても、少なくとも、今この瞬間は。
よく、雄大な自然とであったときに自分の小ささを感じるなどとテレビでやっていますが、本当でしょうか?
無限の前では、1,000,000,000,000も1も同じでしょうよ。
クロネッカーは言いました。
整数は神がつくった。他は人間がつくった
と。(整数は無限なんですけどね)
まあそんなことを思う一方、有限も捨てたもんじゃないなと思うわけです。
世にある芸術というものは、ある一点で共通するものを持っていると思います。それは、
有限の中に、無限を詰め込もうとする試みである
ということです。
モナリザは、いろんな角度から見た顔のパーツが詰め込まれています。
CMは、30秒の中に多くのメッセージを詰め込みます。
弓道は、会の中に無限の伸合いを詰め込みます。
・・・最後はちょっと力技だったでしょうか。結局これが言いたかったのです。
王座・東西なんかはみんな中る人ばかりなんですが、
その中でしょーもない体配とってる人なんかは、もうぜんぜん上手に思えません。
これは、その人の体配の中に、その人の今までの人生の重みが感じられないからではないかと思ってしまうわけです。
この人ほんとに普段まじめに練習してんのか、と。
うまい人の体配は、重いです。どっしりしてます。
そんなわけで、僕もそんな弓道ができたらな、なんて思いつつ練習するわけであります。まだまだですが。
少なくとも会でプルプルしないようになりたいです。
こんなことを考えながら生きています。
やっぱり授業は退屈です。
自分で勉強した方がマシだな、と思うような授業が結構あります。
しかしながら卒業するためには出るしかないわけで。いやはや因果なものでごぜえます。
生きてるってなんだろ、生きてるってなあに?
なんて。お後がよろしいようで。
朱き唇 褪せぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものを
(『ゴンドラの唄』)
黒澤明監督の映画「生きる」のシーンで使われたこの歌。
この歌が美しいのは、「いのち短」い「少女」を詠っているそのなかに、いきることの本質みたいなものを感じるからかもしれません。
生きるといえばテリーとドリー。
生きてるってなんだろ、生きてるってなあに?
いーからいーから~、テリーを信じて~
違いますね。すいません。懐かしいです。
こんにちは。H田図書館館長のH田です。
タイトルは、お勧めの漫画です。貸し出し希望は館長まで。
最近、なんだか7th forestとwest tailが忙しいらしいです。
おそらく水曜前がやばいらしいです。経験者は語る。
プログラミングの宿題は、日曜日が試合でつぶれ始めてからが本番です。
一週間に二回くらい来てたら褒めてあげてください。
N森といえば、すうがくが大好きらしいです。
高校時代積分の問題を解いているとき、感動しすぎて涙を流したこともあるとか。真性です。
今まで内緒にしてきましたが、僕もすうがくが趣味です。嘘です。別に内緒にしてませんでした。
すうがくはいいものです。
この前、集合論の本を読んでいたらしみじみ感じたことがあります。すなわち、
無限はイデアの中でのみ存在し得る
ということです。
この広い宇宙も、高々有限でしかありません。
今も空間で素粒子の対生成・対消滅が起こっていて、それは一見無限に見えますが、
時間と空間が有限であると仮定するならば有限です。時間が無限だとしても、少なくとも、今この瞬間は。
よく、雄大な自然とであったときに自分の小ささを感じるなどとテレビでやっていますが、本当でしょうか?
無限の前では、1,000,000,000,000も1も同じでしょうよ。
クロネッカーは言いました。
整数は神がつくった。他は人間がつくった
と。(整数は無限なんですけどね)
まあそんなことを思う一方、有限も捨てたもんじゃないなと思うわけです。
世にある芸術というものは、ある一点で共通するものを持っていると思います。それは、
有限の中に、無限を詰め込もうとする試みである
ということです。
モナリザは、いろんな角度から見た顔のパーツが詰め込まれています。
CMは、30秒の中に多くのメッセージを詰め込みます。
弓道は、会の中に無限の伸合いを詰め込みます。
・・・最後はちょっと力技だったでしょうか。結局これが言いたかったのです。
王座・東西なんかはみんな中る人ばかりなんですが、
その中でしょーもない体配とってる人なんかは、もうぜんぜん上手に思えません。
これは、その人の体配の中に、その人の今までの人生の重みが感じられないからではないかと思ってしまうわけです。
この人ほんとに普段まじめに練習してんのか、と。
うまい人の体配は、重いです。どっしりしてます。
そんなわけで、僕もそんな弓道ができたらな、なんて思いつつ練習するわけであります。まだまだですが。
少なくとも会でプルプルしないようになりたいです。
こんなことを考えながら生きています。
やっぱり授業は退屈です。
自分で勉強した方がマシだな、と思うような授業が結構あります。
しかしながら卒業するためには出るしかないわけで。いやはや因果なものでごぜえます。
生きてるってなんだろ、生きてるってなあに?
なんて。お後がよろしいようで。