まあまあ人生

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くつろぎの旅 Ⅱ

2009年11月06日 | Weblog
起床午前6時20分、連日のハードなスケジュールで疲れて目覚ましで起床。急いでH師の宿泊先にホテルに行く。既にS兄夫妻が来ておられた。一同関西空港に行き、お見送りをする。

昨日は、くつろぎの旅二日目であった。車中礼拝の後、粟津温泉を出発して日本三名園の一つ兼六園に行く。2~3日前から始った名物の雪吊りがされていた。枝の先で職人さんが軽業師のように作業をされていた。様々な姿の松や杉苔が敷き詰められた姿に心癒された。園を一巡後昼食場所のすし割烹「小林」でご馳走に舌鼓を打つ。腹ごしらえをした後、金沢を後に一路福井の敦賀へバスは走った。

この旅行の目玉の一つであるラジオ深夜便で聞いた、「人道の港敦賀ムゼウム」に行く。古江孝治館長から説明を聞く。「ムゼイム」はポーランド語で「資料館」という意味である。館長から私達の知られざる歴史の事実を知った。明治の末期、東京と敦賀の間に国際列車の運行が開始され程、国際都市であった。敦賀の海の向こうに大陸の玄関口、ウラジオストクあり連絡線の航路が開かれた。

1939年、ドイツ軍がポーランドを侵攻し東からソ連(当時)に攻め込まれポーランドは、両国に分割されナチスドイツの迫害から隣国リトアニアに逃げ込む。そこえソ連はリトアニアを合併し、ユダヤ人をシベリアに送る過酷な措置をする。それから逃れるために日本に入国して他の国々へ逃げることであった。リトアニアにあった領事館にビザを求めるユダヤ人が殺到した。そこで杉浦千畝領事代理が窮状を察知して日本政府の命令に背き多くのビザを発給したことは有名である。敦賀に上陸したユダヤ難民に対して敦賀の人達は手厚く接したそうである。

「敦賀ムゼイム」後に、「日本海さかな街」で買い物をして帰路につく。


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