午前5時50分に携帯で起床、新大阪にあるニューオーサカホテルに行く。今朝は、冷たく感じた。
ニューオーサカ朝祷会は、宝塚黙想の家のY師が「マタイの宣べ伝えたいもの、私たちが宣べ伝えたいもの」と題して、マタイ9:9~10からメッセージされた。
聖書のことばは神のことばであることを時として忘れることがある。
福音を宣べ伝えているが、宣べ伝えたと思う時、抽象的なことは言わない。福音は、闇に住む人に光が当たることで、暗闇の中でキリストの光に触れことである。徴税人は、人を苦しむほど自分が富む。人の不幸と自分の幸いが反比例する。人の不幸を自分の幸いとするも、その人の心は闇である。イエスは、マタイに対して私に従えと言われ、マタイはその言葉に従った、それが彼の人生を変えた。徴税所に座るのがマタイの仕事であった。それを捨ててイエスに従った。暗闇の人生に一筋の光が射し込み全てが変わった。抽象的な神学を語りかけるのではなく、具体的に福音を伝える。愛とゆるしを歩んでこられたイエスを思い、今日の一日を歩みたい。と語られた。Y師のゆっくりとした言葉は、何かしら心に響いた。
愛餐は、いつもの通りバイキングで、あまり食べてはいけないと思いながら、やはりいやしいものでつい多めに食べてしまう。少し、交わりのあと帰宅する。一息つく間もなく、K姉宅の家庭集会に集う。今日は、都合の悪い方がおられて何時もより少なかった。
今日は、何時もの人生を導く「5つの目的」共同体を育てるを学ぶ。共同体を育てるには、正直さ、謙遜さ、思いやり、秘密を守る、頻繁に集まる、必要があることを学ぶ。学びあとは、美味しいサンドウィチとスープの昼食を頂きながら交わりの一時を過ごす。感謝!
ニューオーサカ朝祷会は、宝塚黙想の家のY師が「マタイの宣べ伝えたいもの、私たちが宣べ伝えたいもの」と題して、マタイ9:9~10からメッセージされた。
聖書のことばは神のことばであることを時として忘れることがある。
福音を宣べ伝えているが、宣べ伝えたと思う時、抽象的なことは言わない。福音は、闇に住む人に光が当たることで、暗闇の中でキリストの光に触れことである。徴税人は、人を苦しむほど自分が富む。人の不幸と自分の幸いが反比例する。人の不幸を自分の幸いとするも、その人の心は闇である。イエスは、マタイに対して私に従えと言われ、マタイはその言葉に従った、それが彼の人生を変えた。徴税所に座るのがマタイの仕事であった。それを捨ててイエスに従った。暗闇の人生に一筋の光が射し込み全てが変わった。抽象的な神学を語りかけるのではなく、具体的に福音を伝える。愛とゆるしを歩んでこられたイエスを思い、今日の一日を歩みたい。と語られた。Y師のゆっくりとした言葉は、何かしら心に響いた。
愛餐は、いつもの通りバイキングで、あまり食べてはいけないと思いながら、やはりいやしいものでつい多めに食べてしまう。少し、交わりのあと帰宅する。一息つく間もなく、K姉宅の家庭集会に集う。今日は、都合の悪い方がおられて何時もより少なかった。
今日は、何時もの人生を導く「5つの目的」共同体を育てるを学ぶ。共同体を育てるには、正直さ、謙遜さ、思いやり、秘密を守る、頻繁に集まる、必要があることを学ぶ。学びあとは、美味しいサンドウィチとスープの昼食を頂きながら交わりの一時を過ごす。感謝!