まあまあ人生

70年の人生 まあまあですね

38号

2006年09月20日 | Weblog
長男幸晴が生まれて、母を入れて7人家族となり、一段と賑やかになる。外出する時は大変である。1973年(昭和48年)毎日が慌ただしく過ごし、日記も空白が多くなる。
その年の10月には、オイルショックが始まり、トイレットペーパーや灯油が不足がちになって来た。1994年の春、警察本部会計課に異動。新米主任として、用度係りに配置になる。消耗品の調達が主な仕事で、昨年から始まったオイルショックをまともに受け、紙製品が品薄,高騰で仕事はしんどかった。加えて、担当係りは、私以下、新米のメンバーで四苦八苦の連続であった。幸い万博の余韻があり助けられた面も多かった。
オイルショクが一段と進むと、諸物価も値上がりした。トイレットペーパー等はスーパーで販売しても、皆が買いだめをするので、瞬く間に売り切れ、そのことで拍車がかかりいよいよ入手が困難になった。ある家等は、部屋一杯に買いだめ、何年分の使用量で、笑えないことが起こっていた。姉が酒屋を経営しており、日々大量のダンボール類が出来、それを2~3日まとめて、古物商に持っていくと、一寸した小遣いにった。今では考えられない程の高値であったと記憶する。
母は、今で言う認知症が出てきて、財布が無くなったとかとか、物をタンスに隠すようになり、家内とよくもめていた様である。そんなある夜中、玄関をどんどん叩く音に目が覚める。玄関に出ようとして、玄関横の台所の前に母が立っており、ガスコンロの上のプラスチックの水切りが黒い煙を出しながら燃えているのを見て、慌てて、風呂の水をかけたが、パチパチと音をたてながら、消火しないので、急いで消火器を持ってきてかけると一瞬に消火した。そして、あわてて、玄関に出ると二人の警察官が火の手を見て、玄関を叩いて知らせて下さったのである。もし、あの時、警察官が通らなかったら、発見されず火事になっていたことは間違いないと思う。母が夜中、ガスコンロに火をつけその上にプラスチックの水切りを乗せていたのである。そのことがあって暫くして、母は寝たきりになった。私達は、ほっとした思いであった。
1976年(昭和51年)の12月14日、母とよは76歳で亡くなる。

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