東大准教授の金子拓さんが、2014年に出版した「織田信長、天下人の実像」という本があります。
この本の主張は実に明快でして「織田信長は天下静謐を大義としていた。全て天下静謐という言葉で説明することが可能である。ただし四国政策で、その大義に変更があった」というものです。(あくまで2014年にそうお書きになっているということです。)
天下静謐についての詳細な内容は本を読んでもらうしかありません。それはもともと室町幕府も目標としたもので、畿内が平穏であり、その畿内に天皇と将軍がいて、地方の大名が畿内を中心に、ゆるく連携しながら平和を保っている状態、、、とここでは書いておきます。金子さんが見たら「違うよ」と言われるでしょう。きっと。
一見すると天皇を頂点とする秩序に、補佐役として将軍がいて、さらに周辺に大名たちがいる、、と理解されそうですが、違います。というか「ちょっと違い」ます。金子説によれば、信長の考えでは「天皇すらも天下静謐という大義のもとにいる」とされます。この主張の是非は別にして、今の天皇を考えると理解はしやすい主張です。天皇はあくまで「公的存在」であって公正無私な「公」が天皇個人に優先します。「公」を期待され、もし「私利私欲の行動」を取れば、天皇すら批判されます。現実には、そうした行動は「とれない」ので「私的行動だ」と天皇皇后が批判されることはありません。皇族はどうでしょうか?「過剰な批判にさらされる」ことがあり、ああかわいそうだな、と個人的には思います。そしてその批判は必ずしも「私」に対するものとは言えない。宗教に対する、歴史的経緯を知らぬ誤った思い込みと不寛容からも起きているようです。
「麒麟がくる」に引き寄せて書くなら「お天道様」太陽=公が一番偉いのです。次が天皇と将軍、ということになります。
なぜ金子さんはことさらに「天皇すら天下静謐の大義のもとにある」と主張しなければならなかったのでしょうか。それは「信長が天皇の恣意的な判断を批判したとおぼしき史料」が厳然として残っているからです。それを示して自説を批判する人を「前もって制止している」わけです。
それは例えば「興福寺別当職の座をめぐる相論(争い)」に関するものです。ここは「引用」します。
「自分の提案が無視されたことに怒った信長は、(朝廷の)奉行職の所領を取り上げ、彼らを謹慎処分にして、天皇の失策を強く批判する。ことの重大さに気がついた天皇は、深く反省し、信長に対して奉行職の赦免を乞い、詫びを入れるという前代未聞の事態に立ち至った」
金子さんほど史料批判をマジメにする方もいませんので、もちろん元になった史料があり、その史料を批判的に検討してから述べています。
その前提としてあるのが「すでに戦国時代において、朝廷の政治判断能力は目に見えて低下しており、天皇や関白・公家衆など複数の判断主体が併存し、それぞれ自分の利益にかなった方向にみちびこうとして統制がとれていなかった。しかも彼らはこのあり方がおかしいものだと感じていなかった」という認識です。
天皇・関白・公家衆は「各自がバラバラに判断すること」や「利益誘導」を「おかしいものだと感じていなかった」わけですから、なおるわけはないのです。それに疑問を持ったのが三条西実枝だと続きますが、私は「朝廷統制がとれていなかったという認識」を紹介したいだけなので、金子さんの引用はここまでです。
なお別にこの説は「信長と朝廷が対立していた」と言っているわけでも「信長は天皇の上にいた」と言っているわけでもありません。むしろ逆です。信長と朝廷の親和性に注目しています。ただ信長の行動原理は「天下静謐」という大義であり、それに反する行為は相手が天皇でも許さなかったというだけです。
実は私は金子さんの「天下静謐の信長」には疑義を持っています。例えば金子さんは明智光秀が惟任日向守であること(彼の名前は惟任光秀です)を軽く見ます。軽くみる根拠も「信長は変な名前が好きだったから」「動機を書いた一次史料がないから」と脆弱です。動機など説明するわけありません。これが今まで言われてきたように九州制覇を前提とした名だとすると「天下統一など目指していなかった」という金子さんの主張が崩れます。それは実はどうでもいい細かい問題に過ぎませんが、その他疑義は「いっぱい」あります。ただ最近は「わざとやってるのじゃないか」と思っており、それらしき発言(私の主張で信長を塗りつぶしては駄目だ。研究は永遠に終わらない)もあり、氏の本をなるべく沢山読んで「いや違うだろ」とか突っ込み入れながら「いい勉強させて」もらっています。私は特定の学者を信奉したりすることはありません。別に私の「先生」ではありませんし、カリスマ化は真実を曇らせます。でも金子さんのマジメな姿勢は尊敬すべきとも思っています。だからと言って氏の説に同意するわけではない。でも御本は拝読します。上記の本も四回以上読んで、やっとある程度理解できました。さらに言えば朝廷の実態など、こういう「個々の事実認定」は説への疑義とは全く別の次元の話です。それは大変丁寧に行っており、信頼に足るものだと私は考えます。偉そうに書いてますが、史料読みなんて私にはほぼできません。活字になっていれば多少できます。私がやっている作業はただ「論理的整合性の検証」だけです。論理的にみて「正しいか否か」を考えているのです。
蛇足でさらに加えれば、SNSで多くの人が高い評価をしている「先生」でも、読んでみると特定の立場からバイアスを持って歴史を論じており、それが理由で、私にとっては一文の価値もないと感じることがあります。逆に多くの人が束になって馬鹿にしているような「先生」の本に、多くの示唆を与えられることもあります。どっちにせよ私の「先生」ではありませんが。
話もどして、この「朝廷統制がとれていなかった」という認識は、金子さんとは史観を異にする堀新さんも同じです。堀新さんの提言も凄いと思います。虚像と実像を共に追求する、まさに我が意を得たりです。第一線の日本史学者が「自分と同じことを考えていた」と知り、はしゃぎそうになりました。しかしだからと言って氏の「公武結合王権」説に同意するわけではありません。まあ、本当は「もしかすると正しい」とは思っていますが(笑)。まだ分かりません。もっと御本を読まないと分かりません。
天皇の問題は、どの学者も強いバイアスを持って論じることが多く、基本どの学者のいうことも信じてはいけないと思います。同じ史料から「全く反対の解釈がでる」こともしばしばです。ただ「バイアスに自覚的な学者さん」が何人かいて、その代表が堀新さんだと思いますが、金子さんもおそらく自覚的です。バイアス=偏見を避けることは誰にもできません。しかしそれに対して自覚的か否かによって、説の質は全く違ってきます。自覚的であるほど、質のよい説になっていると私は考えています。なお私自身も人間だから、当然のこととしてバイアスを持っています。
そんなこんなで、この「朝廷統制がとれていなかった」という認識は正しいと思って大丈夫だろう、と考えています。これは大変に参考となる事実認定です。
「麒麟がくる」に正親町帝が主要な出演者として出たのをきっかけに、久々に天皇について考えています。もう20年ぶりぐらいで、頭が回転しませんが、まあそれはいつものことです。この文章は別にさほどの意味はないのです。「勉強してます」という報告に過ぎません。
この本の主張は実に明快でして「織田信長は天下静謐を大義としていた。全て天下静謐という言葉で説明することが可能である。ただし四国政策で、その大義に変更があった」というものです。(あくまで2014年にそうお書きになっているということです。)
天下静謐についての詳細な内容は本を読んでもらうしかありません。それはもともと室町幕府も目標としたもので、畿内が平穏であり、その畿内に天皇と将軍がいて、地方の大名が畿内を中心に、ゆるく連携しながら平和を保っている状態、、、とここでは書いておきます。金子さんが見たら「違うよ」と言われるでしょう。きっと。
一見すると天皇を頂点とする秩序に、補佐役として将軍がいて、さらに周辺に大名たちがいる、、と理解されそうですが、違います。というか「ちょっと違い」ます。金子説によれば、信長の考えでは「天皇すらも天下静謐という大義のもとにいる」とされます。この主張の是非は別にして、今の天皇を考えると理解はしやすい主張です。天皇はあくまで「公的存在」であって公正無私な「公」が天皇個人に優先します。「公」を期待され、もし「私利私欲の行動」を取れば、天皇すら批判されます。現実には、そうした行動は「とれない」ので「私的行動だ」と天皇皇后が批判されることはありません。皇族はどうでしょうか?「過剰な批判にさらされる」ことがあり、ああかわいそうだな、と個人的には思います。そしてその批判は必ずしも「私」に対するものとは言えない。宗教に対する、歴史的経緯を知らぬ誤った思い込みと不寛容からも起きているようです。
「麒麟がくる」に引き寄せて書くなら「お天道様」太陽=公が一番偉いのです。次が天皇と将軍、ということになります。
なぜ金子さんはことさらに「天皇すら天下静謐の大義のもとにある」と主張しなければならなかったのでしょうか。それは「信長が天皇の恣意的な判断を批判したとおぼしき史料」が厳然として残っているからです。それを示して自説を批判する人を「前もって制止している」わけです。
それは例えば「興福寺別当職の座をめぐる相論(争い)」に関するものです。ここは「引用」します。
「自分の提案が無視されたことに怒った信長は、(朝廷の)奉行職の所領を取り上げ、彼らを謹慎処分にして、天皇の失策を強く批判する。ことの重大さに気がついた天皇は、深く反省し、信長に対して奉行職の赦免を乞い、詫びを入れるという前代未聞の事態に立ち至った」
金子さんほど史料批判をマジメにする方もいませんので、もちろん元になった史料があり、その史料を批判的に検討してから述べています。
その前提としてあるのが「すでに戦国時代において、朝廷の政治判断能力は目に見えて低下しており、天皇や関白・公家衆など複数の判断主体が併存し、それぞれ自分の利益にかなった方向にみちびこうとして統制がとれていなかった。しかも彼らはこのあり方がおかしいものだと感じていなかった」という認識です。
天皇・関白・公家衆は「各自がバラバラに判断すること」や「利益誘導」を「おかしいものだと感じていなかった」わけですから、なおるわけはないのです。それに疑問を持ったのが三条西実枝だと続きますが、私は「朝廷統制がとれていなかったという認識」を紹介したいだけなので、金子さんの引用はここまでです。
なお別にこの説は「信長と朝廷が対立していた」と言っているわけでも「信長は天皇の上にいた」と言っているわけでもありません。むしろ逆です。信長と朝廷の親和性に注目しています。ただ信長の行動原理は「天下静謐」という大義であり、それに反する行為は相手が天皇でも許さなかったというだけです。
実は私は金子さんの「天下静謐の信長」には疑義を持っています。例えば金子さんは明智光秀が惟任日向守であること(彼の名前は惟任光秀です)を軽く見ます。軽くみる根拠も「信長は変な名前が好きだったから」「動機を書いた一次史料がないから」と脆弱です。動機など説明するわけありません。これが今まで言われてきたように九州制覇を前提とした名だとすると「天下統一など目指していなかった」という金子さんの主張が崩れます。それは実はどうでもいい細かい問題に過ぎませんが、その他疑義は「いっぱい」あります。ただ最近は「わざとやってるのじゃないか」と思っており、それらしき発言(私の主張で信長を塗りつぶしては駄目だ。研究は永遠に終わらない)もあり、氏の本をなるべく沢山読んで「いや違うだろ」とか突っ込み入れながら「いい勉強させて」もらっています。私は特定の学者を信奉したりすることはありません。別に私の「先生」ではありませんし、カリスマ化は真実を曇らせます。でも金子さんのマジメな姿勢は尊敬すべきとも思っています。だからと言って氏の説に同意するわけではない。でも御本は拝読します。上記の本も四回以上読んで、やっとある程度理解できました。さらに言えば朝廷の実態など、こういう「個々の事実認定」は説への疑義とは全く別の次元の話です。それは大変丁寧に行っており、信頼に足るものだと私は考えます。偉そうに書いてますが、史料読みなんて私にはほぼできません。活字になっていれば多少できます。私がやっている作業はただ「論理的整合性の検証」だけです。論理的にみて「正しいか否か」を考えているのです。
蛇足でさらに加えれば、SNSで多くの人が高い評価をしている「先生」でも、読んでみると特定の立場からバイアスを持って歴史を論じており、それが理由で、私にとっては一文の価値もないと感じることがあります。逆に多くの人が束になって馬鹿にしているような「先生」の本に、多くの示唆を与えられることもあります。どっちにせよ私の「先生」ではありませんが。
話もどして、この「朝廷統制がとれていなかった」という認識は、金子さんとは史観を異にする堀新さんも同じです。堀新さんの提言も凄いと思います。虚像と実像を共に追求する、まさに我が意を得たりです。第一線の日本史学者が「自分と同じことを考えていた」と知り、はしゃぎそうになりました。しかしだからと言って氏の「公武結合王権」説に同意するわけではありません。まあ、本当は「もしかすると正しい」とは思っていますが(笑)。まだ分かりません。もっと御本を読まないと分かりません。
天皇の問題は、どの学者も強いバイアスを持って論じることが多く、基本どの学者のいうことも信じてはいけないと思います。同じ史料から「全く反対の解釈がでる」こともしばしばです。ただ「バイアスに自覚的な学者さん」が何人かいて、その代表が堀新さんだと思いますが、金子さんもおそらく自覚的です。バイアス=偏見を避けることは誰にもできません。しかしそれに対して自覚的か否かによって、説の質は全く違ってきます。自覚的であるほど、質のよい説になっていると私は考えています。なお私自身も人間だから、当然のこととしてバイアスを持っています。
そんなこんなで、この「朝廷統制がとれていなかった」という認識は正しいと思って大丈夫だろう、と考えています。これは大変に参考となる事実認定です。
「麒麟がくる」に正親町帝が主要な出演者として出たのをきっかけに、久々に天皇について考えています。もう20年ぶりぐらいで、頭が回転しませんが、まあそれはいつものことです。この文章は別にさほどの意味はないのです。「勉強してます」という報告に過ぎません。