ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

忠犬ハチ公 (中編)

2016-04-03 09:35:06 | どうぶつ

《 前編からのつづき 》

 

ハチの死から間もなく、日本は日中戦争太平洋戦争へと突入。

武器や建設資材にするための金属の不足が深刻になり、1941年(昭和16年)に金属回収令が出されて

偉人の銅像や寺の梵鐘までが金属供出の対象となり、ハチ公像も回収されることになった。

斎藤やその支持者はそれを阻止しようと断固として反対し、同量の銅をどこからか見つけてくるとまで申し出た。

しかしハチ公像は目立つ場所にあるうえ有名すぎたため、妥協案として 「回収して戦争が終わるまで保管する」 ことが

提案され、斎藤らはこれを受け入れた。

1944年(昭和19年)10月12日、 『出陣式』 のあと、ハチ公像は撤去された。

当時の新聞は、これをハチ公の 『誉れの出陣』 と表現した。

 

 

 

 「戦争が終わるまでハチ公像を別所に保管する」 というのは、最初から真赤な嘘だったのか。

あるいは戦時中の混乱で連絡に行き違いがあったのか。

いずれにせよ、ハチ公像は10ヶ月後の1945年(昭和20年)8月14日――終戦の前日――溶解され、

機関車の部品になってしまった。

 

 

太平洋戦争中の大空襲により、日本の首都東京は焼け野原に。

  

  

 

終戦直後と復興後の東京

 

1945年(昭和20年)8月15日、日本国民はラジオから流れる天皇の声を初めて聞いた。

  

 

空襲により見る影もない焼け野原になった渋谷。

 

人々の絶望は想像を絶するものだった。

ハチ公像が永遠に失われてしまったというニュースは、それに拍車をかけただけだったろう。

1947年。 渋谷の商店主や斎藤が、ハチ公の新しい銅像を建てることを誓った。

ハチ公像の再制作に、安藤照の息子で自らも彫刻家となっていた安藤士(たけし、1923-)以上の適任者がいただろうか?

 

 

 

新しい銅像建立の際はその呼称を “忠犬ハチ公” から “愛犬ハチ公” と改めようとしたものの、 “愛犬” は定着せず

“忠犬” のまま落ち着いたようである。

 

 

安藤士は彫刻家として認知され始めたころ徴兵された。 1945年10月、彼は焼失した自宅へと帰還し、家族の運命を知った。

ハチ公像を制作した父親の(1892-1945)は、1945年(昭和20年)5月25日に士の妹とともに空襲で死亡していた。

「近所の方が教えてくれました。 空襲で防空壕に逃げ、そこで焼死したと。」

士自身は宮崎県に配置されていたため難を逃れた。 偶然士に面会に行っていた母親も無事だった。

腹を空かせ、ぼろをまとい、履く靴すらなく、明日の食べものの保証もなかったが、「生きてさえいれば、何とかなる。」 そう思った。

庭を掘り返したら埋めておいた粘土が出て来たので、創作活動を再開した。

 

斎藤弘吉にハチの新しい銅像の制作者として指名された士は、天にも昇る気持ちだった。

「ハチ、お前を作ってやるぞ!」

父親が作った最初の像の型も資料も記録も焼失していたが、士の記憶にはハチの姿が鮮やかに残っていたので、

目をつぶっていても作れる気がした。 士はハチをよく覚えていた。 ハチは優しい目をした大きな立派な日本犬だった。

賢くおとなしく人懐こく、それでいて圧倒的な存在感があった。 人間が大好きで、信用していたと士は信じる。

大きな犬だったにもかかわらずおとなしく、子供にも優しく、怖いところなど皆無だった。

ハチが父親・照のアトリエに通っていた夏、士は10歳だった。 照はハチに好きなようにさせ、年老いて

夏の蒸し暑さにも閉口していたらしいハチは横になっていることが多かった。

父親が確立させた立派な秋田犬としてのハチの姿に、士は人間と動物の間の真実の愛情と信頼を、

その繊細な表情と遠くを見つめるような瞳に表現した。 また父親の像がハチのりりしさ・力強さに焦点を合わせて

いたのに対し、士はハチの可愛らしさ・親しみやすさに重きをおいた。

 

士が記憶と写真だけを頼りに作った石膏像は斎藤を満足させたが、ひとつ問題があった。 十分な量の銅が手に入らなかったのだ。


       

 

新しい像の除幕は、終戦から3周年となる1948年8月15日とすでに決定されていた。

焦った士は、父親が作った女性ダンサーをモデルにした像 『大空に』 が焼けた家の下敷きになっていることを思い出した。

父親が元大名家のため製作したもので、戦争が始まると金属回収を怖れた持主が、父親の元に送り返してきていたのだ。

両腕を失った状態のその像を見つけた士は思った。

(親父、これをもらうぞ。 無駄にはしない。 この像はハチ公になって、永遠に人々に愛されるんだ!)

重さ100kgを超える像をリヤカーに載せ、3時間かけて鋳物屋に運んだ。

「戦前の良質な銅だ」 と言われたとき、疲れが吹っ飛んだ。

 

安藤士に関するリンク:

歴史秘話ヒストリア  きっと会える!大好きな人に  ~渋谷とハチ公 真実の物語~

渋谷KEY PERSON 安藤士さん (彫刻家)

読売新聞 ハチ公を探して 第2部 《》 《》 《》 《》 《

 

新しいハチ公像は、1948年8月15日に除幕された。

         

 

直後の8月30日(9月5日という情報源も)には、来日していたヘレン・ケラーが渋谷駅に来、ハチ公像に触れたという。

彼女はまた、安藤士の顔にも触れたそうだ。

  

 

 やがて開発のため、ハチ公像近くのビルが撤去された。

  

 

 1952年(昭和27年)。 左下にハチ公像。 戦後わずか7年でここまで復興! 

       

 

渋谷駅上空をケーブルカーが走っていたことがあったとは・・・ 乗ってみたかったなぁ~!!

   

 

渋谷駅周辺の開発のため、ハチ公像は10回以上も移動されたという。 そうしながらずっと、渋谷の町を見守ってきた。

        

 

ハチ公像の前に噴水があったこともあったんだなぁ。

  

 

投票促進や火の用心に一役買うハチ公。

 

 

最初の銅像建立から50周年にあたる1984年4月8日のハチ公記念日には、東京大学の有志によって

上野博士の胸像との再会が実現。

1985年3月8日には、渋谷駅開設100周年とハチ公の50年目の命日を記念して犬の一日駅長が招かれた。

1989年1月初めには、昭和天皇が崩御。

  

 

再開発のため平成のはじめに移動され、現在の場所に落ち着いた。

 

 

2000年冬

 

2009年7月7日、 『HACHI 約束の犬』 に出演したリチャード・ギアがハチ公像に対面。

像を制作した安藤士も招かれた。

       

 

2012年5月には、同映画の舞台となった架空の駅として撮影に使われたウーンソケット停車場 (Woonsocket Depot)の

前の広場に、ハチ公像が設置された。 Woonsocketcall.com によると、ハチの像を建てることを思いついたのは市長。

地元のビーコン・チャーター美術学校 (Beacon Charter High School for the Arts) の校長がインターネットで

ニュー・ジャージーのアーティストが製作したハチ公像を見つけ、賛同を得て学校の予算でその像を購入し、市に寄贈したものだ。

同市は 『ハチの足跡巡り』 (Hachi Trail) を用意して、ハチのファンの訪問を待っている。

          

 

 

《 後編につづく 》

 

 

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