ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

パラリンピックの父

2012-08-29 00:06:09 | トピック

先日、興味深いドラマを見た。 BBC2で放映された、“The Best of Men”。

 

実話のドラマ化で、主人公はドイツ系ユダヤ人医師、ルートヴィヒ・グットマン。 舞台は第二次世界大戦中のイギリスの病院。

グットマンは、1899年に現ポーランド領の Toszek の町に、長子として誕生。 下に妹が3人いた。 彼は17、18歳の時、放課後に、負傷した炭鉱夫を専門に扱う病院でボランティアとして働いていた。 ある日脊髄を損傷した若い炭鉱夫が運ばれてきた。 彼についての記録を書き始めたグットマンは、スタッフにこう言われた。 「記録は要らないよ。 どうせもっても数週間だ。」 その言葉通り、その炭鉱夫は尿路感染症と重度の床ずれから敗血症にかかり、5週間後に死んだ。 この患者のことを、グットマンは生涯忘れることはなかった。

    グットマン医学博士            回診中のグットマン

  

医学を志したグットマンは、1924年にドイツのフライブルク大学で医学博士の学位を取得し、現ポーランド領のヴロツワフで神経学で高名なフェスター教授の下で働く機会を得た。 1928年からは、ハンブルク大学に併設されたベッド数300の精神科クリニックで、神経外科医を勤めた。 1929年にはフェスター教授の助手になった。 1933年、ナチスの台頭によりユダヤ人が公立病院で医療に従事することが禁止され、グットマンも6月30日付で解雇される。 グットマンはしかし、ヴロツワフのユダヤ人病院の神経外科部長として、直ちに職を得た。 ユダヤ系のドイツ人の立場は難しくなる一方で、グットマンには外国からの仕事のオファーが十分あったが、ナチスが長続きするとは信じられなかったグットマンは、ドイツに留まった。 ユダヤ人医療従事者界の長に選ばれたグットマンは、危険を冒しながら何度もユダヤ人を救った。  

1938年9月、グットマンはゲシュタポに、ユダヤ人以外の患者を退院させ、またユダヤ人以外の患者の診察をやめるよう命じられる。 同年11月9日に起きた『水晶の夜事件』で多くのユダヤ人やその住宅、商店、教会堂などが襲撃されたとき、グットマンは病院のスタッフに「病院に助けを求めて来た者はすべて受け入れるように」命じた。 それにより病院に来た63人の患者のうち60人が、逮捕され強制収容所送りになるのを免れた。 この事件でグットマンは、ドイツを離れなければならない日が迫っていることを悟った。

ナチスの迫害から逃れるため、翌1939年初め、グットマンは妻子を連れてドイツを離れ、1939年3月14日にイギリスに到着した。 有能な神経医学者だったグットマンは、オックスフォードに研究を続ける場を与えられた。 当時、半身麻痺患者の死亡率は80%に達していた。 生存した者は、“仕事に就けず、将来の希望も持てず、役立たずの社会のお荷物”として施設に送り込まれた。 半身麻痺患者の平均余命は、わずか3ヶ月だった。 1941年12月にグットマンは、イングランド医療研究委員会に要請され、脊髄損傷患者の扱いとリハビリに関するレポートを提出する。 その結果、委員会は脊髄損傷患者のみを対象にした特別なセンターの設置を決定。 1943年9月、バッキンガムシャー州ストーク・マンデヴィル病院に国立脊髄損傷センターが設立され、グットマンは政府によって所長に任命された。 グットマンは、①自分が完全に独立した立場であること、②患者の扱いに関しては自分の信念を貫けることを条件に、任命を受け入れた。

ベッド数26のセンターは1944年2月1日にオープンした。 第二次世界大戦で脊髄を損傷し、送り込まれてくる兵士たち。 自分の足で歩くことができなくなった彼等は当時、医療関係者にも一般大衆にも、「将来に目的も希望もない」「二度とふたたび社会に溶け込めない」存在であるとみなされていた。 脊髄を損傷した兵士たちは鎮静剤を投薬され、ギプスを当てられ、ベッドに寝かされたきりで、避けようのない死を待つだけだった。 尿路感染症やひどい床ずれにより、大半が2年以内に死亡した。 

「脊髄を損傷し車椅子生活になった兵士にだって、未来はある。 自信と希望を取り戻せば、リハビリによってふたたび社会に貢献することは可能だ。」

グットマンは、患者への鎮静剤投与をやめさせ、尿路感染症や床ずれを防ぐため、患者をできるだけベッドから離すようにした。 またスポーツや手作業(木工、時計の修理、タイピングなど)を奨励することによって、患者の肉体面および精神面での健康を回復させた。 特にスポーツは、半身や四肢が麻痺した患者の体力やスピードやバランス感覚や持久力を向上させるだけでなく、自信喪失、自己憐憫などに沈みがちな患者の精神をも向上させるのに有効だった。 スポーツによって育まれる自己鍛錬、自信、競争心、同朋意識などは、患者が社会に復帰するには必要不可欠だ。 グットマンのセンターに倣い、他の医療センターでも積極的にスポーツをリハビリに取り入れるようになった。 やがてグットマンは、身体にハンデを負った患者や元患者たちの競技大会を開催することを思いつく。 

 

1948年7月28日。 その年のロンドン・オリンピック開会と同じ日に、ロンドンから60km離れたグットマンのセンターで『ストーク・マンデヴィル競技大会』が開かれ、14人の男性と2人の女性の半身/四肢麻痺者がアーチェリーと卓球の腕を競い合った。 「ちっぽけな競技会ではあったが、スポーツが身体機能者だけに与えられた特権ではないことを実演するには十分だった」と、のちにグットマンは語った。 競技会がオリンピック開会日と重なったのも、偶然ではなかった。 グットマンは、競技会がゆくゆくは国際大会になることを、すでに視野に入れていた。

       

翌1949年には、より多くの病院からより多くの患者が大会に参加した。 その年グットマンは、「このスポーツ大会が国際的になり、ストーク・マンデヴィル競技大会が身体障害者にとってのオリンピックと同等になる日がきっと来る」と語った。 参加者と競技種目は年々増え続け、1952年にはオランダから元兵士のチームが参加。 競技大会は初めて国際大会となった。 1953年にはカナダから、1954年にはオーストラリア、フィンランド、エジプトとイスラエルから参加があった。 参加国は増え続けた。

                 

1950年代の終わりが近づく頃にはグットマンは、1960年にオリンピックが開催されるローマで『ストーク・マンデヴィル競技大会』を開催することを考えていた。 イタリアの脊髄損傷センターも、「大会がイギリス以外の国で開催されれば、世界中の障害者の励みになる」とその考えを支持した。 1960年9月11日にローマ・オリンピックが終わると、一週間後の9月18日に、23ヶ国から400人の身体障害のある選手が参加して、ローマで『ストーク・マンデヴィル国際競技大会』が開催された。 このローマ大会が、今日では最初のパラリンピックとみなされている。

ドラマのタイトル“The Best of Men”は、ドラマの中のグットマンのセリフの一部。 同僚の医師たちの中には、脊髄を損傷した元兵士のリハビリ、ましてやスポーツ大会などは時間と資金の無駄と思う者もいた。 彼はグットマンに詰問する。 「オリンピックは、それぞれの国の最高(the best of nations)を引き出す競技大会だ。 身体障害者がスポーツで競い合って、一体何が引き出せるというのだね?」 

それに対する、グットマンの返答。 「引き出せるのは、人間の最高(the best of men)だ」。  (・・・実際にグットマンが言った言葉かどうか定かではありませんが、カッコイイ

ドラマの脚本を手がけたルーシー・ギャノンは言う。 「グットマンはドイツで情熱をもって医療に従事していたのに、いきなり足元をすくわれた。 居場所が奪われ、他国に亡命しなければならなかった。 イギリスに着いたグットマンは、キャリアも家も、親族の大半も失っていた。 自らのその体験が、グットマンの患者たちへの共感の根幹となったとのだと思う。」 試写会に来たグットマンの元患者は、ルーシーにある逸話を話してくれた。 前の日に脊髄を損傷したばかりの新しい患者がグットマンの病棟に着いた。 グットマンは彼に近づき、泳げるか訊いた。 彼が泳げると言うと、グットマンは言った。 「それでは今日の午後2時に、プールで待っているよ」

  スタジアムを背景に、グットマン(中央)             スタジアムが公式にオープンされた日の、エリザベス女王とグットマン

        

グットマンは1961年に『英国障害者スポーツ協会』を設立した。 1969年8月にはストーク・マンデヴィル・スタジアムが完成し、エリザベス女王が公式にオープンした。 このスタジアムは『ストーク・マンデヴィル競技大会』の精神から生まれた障害者のためのスポーツ・センターで、ストーク・マンデヴィル病院のすぐ隣に建設された。 1966年、グットマンはナイト爵位を授与された。 22年間脊髄損傷センターの所長を務めたグットマンは、1967年に引退。 その頃にはセンターのベッド数は200に増えていた。 グットマンは1980年3月18日、冠状動脈血栓症のため死去。 80歳だった。

今年6月、等身大のグットマン博士の銅像の除幕式が行われた。 銅像をお披露目したのは、グットマンの息子で医師のデニスと、娘のエヴァ。 今年のパラリンピックに間に合うよう製作された銅像は、パラリンピック開催中はストーク・マンデヴィル・スタジアムに設置され、閉会後はストーク・マンデヴィル病院に附属する脊髄損傷センターの入口外に常設される。 

                             

              もしもドイツにナチスが台頭しなかったら、果たして『ストーク・マンデヴィル脊髄損傷センター』は設立されていたか?

                    英国に亡命して来なくても、脊髄損傷患者のリハビリは、グットマンのライフワークになっていたか?

                  社会復帰は不可能とされていた身体麻痺者に対する否定的な偏見は、グットマンなしでも変わっていたか?

                           これらの問いに、グットマン自身はチャーチルの言葉を借りてこう答えている。

                   「ナチスがユダヤ人の科学者を追い出したから、イギリスの科学がドイツを追い越すことになったのだ」

 

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開会が今夜に迫ったパラリンピック。 ドラマのおかげでパラリンピック誕生の過程を知ることができました。 

10代の博士が出会った若い炭鉱夫も、現在なら助かって、充実した人生を送ることができたでしょうに。

信念をもって脊髄損傷患者のリハビリを奨励し、それまでの常識を覆したグットマン博士。

『偉人』という言葉は、まさにこういう人のためにあるのでしょうね。 

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コメント (2)    この記事についてブログを書く
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2 コメント

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偉人 (ウイママ)
2012-08-29 22:45:59
オリンピックの競技を見て『人間って鍛えればこんなに素晴らしい演技や試合が出来るんだ・・・』って感心しちゃう。
そして、その後にあるパラリンピック競技を見て『人間って体に障害があっても努力と情熱でここまで出来るんだ・・・』って驚嘆するの。
オリンピックのルーツはだいたい知っていたけど、パラリンピックのルーツは初めて知りました・・・
教えてくれてありがとう

「the best of men」
健常者であれ、障害者であれ、国を超えその一瞬のために努力し自分の最高を引き出すのよね・・・
グットマンって・・・すごいよね・・
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私も、初めて知りました。 (ハナママゴン)
2012-08-30 06:59:04
パラリンピックのルーツって。 オリンピックに倣って何となく始まったものなんだろうと、ずっと勝手に思ってました。
ほんとグットマンて、すごいよね・・・!! 私だったら「常識」とされていた当時の考えに流されて、それを覆そうなんて発想すらなかったと思う。

運動はからきしダメな私。 オリンピックにしてもパラリンピックにしても、出場できるだけでもう、ものすごく偉大なことです。
出場を獲得するためにしてきたであろう努力を思うと、もう全員に金メダルをあげたい気分です。
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