南区柏原地区は、福岡市役所の南約8kmのところ
西鉄天神大牟田線高宮駅南の県道602号線野間四角バス停から西鉄バス柏原営業所行きに乗ります
運転免許試験場を過ぎて柏原小学校前バス停で降りました
小学校は、バス停から北西側に入った所にあります、小学校前の橋を渡らずに樋井川沿いを西へ
すぐに羽黒神社の参道の橋が有ります
野間四角バス停です
柏原小学校前バス停でバスを降りました
.柏陵高校入口交差点を左へ
柏原小学校です
橋の手前を左に入ると
熊野神社参道です
鳥居です
水盤です
参道石段の脇に目的のクスノキです
石段を上がって来ました
南100号保存樹標識です
参道石段上側から、目通り幹囲5.6mの巨木です
石段中程のタブノキです
南102号保存樹標識です
社殿に参拝しましょう
参道の中ほどに神殿跡が有ります、祠が有ったのでしょうか
参道を見下ろしました
境内に上がって来ました、手水舎です
拝殿です
本殿は覆屋の中です
由来碑です
羽黒神社由来碑
名称 羽黒神社
祭神 大巳貴命(おおなむちのみこと)
祭礼日 正月三ヶ日 4月15日 9月15日 11月15日
由来
創建の時代は明らかではないが、「筑前国続風土記拾遺」に天正14年(1586年)の当社に関する文書の存在を示す起債があり中世のころ出羽羽黒山の修験者によって勧請されたと考えられる。
江戸時代には福岡藩主の深い信仰を受け、その武運長久、家内繁栄、無病息災と五穀豊穣の祈祷所でもあった。社殿等の新改築はその寄進による、特に神殿は荘厳な桃山造りで文化財に相当するものであった、また明治の初めまでは付近の集落の産土神であった。
昭和20年6月19日福岡空襲によって社殿は焼失したが、昭和21年氏子によって再建され現在の社殿は、昭和55年に再建されたものである。
現存する鳥居・燈籠等の石造は江戸時代に建造されたものが大部分であり当社の歴史を示す文化財である。
なを、文化・文政期における福岡藩主の信仰を示す文書も現存している。
平成元年5月吉日
福岡県文化会館資料による
本殿左右の境内社です
参道石段を戻ります
川沿い東に入るとモッコクです
南104号保存樹標識があります
見あげました
帰りに川の向かい側から見ました
では、次へ行きましょう、バスに乗って高宮駅に戻ります
西鉄天神大牟田線高宮駅南の県道602号線野間四角バス停から西鉄バス柏原営業所行きに乗ります
運転免許試験場を過ぎて柏原小学校前バス停で降りました
小学校は、バス停から北西側に入った所にあります、小学校前の橋を渡らずに樋井川沿いを西へ
すぐに羽黒神社の参道の橋が有ります
野間四角バス停です
柏原小学校前バス停でバスを降りました
.柏陵高校入口交差点を左へ
柏原小学校です
橋の手前を左に入ると
熊野神社参道です
鳥居です
水盤です
参道石段の脇に目的のクスノキです
石段を上がって来ました
南100号保存樹標識です
参道石段上側から、目通り幹囲5.6mの巨木です
石段中程のタブノキです
南102号保存樹標識です
社殿に参拝しましょう
参道の中ほどに神殿跡が有ります、祠が有ったのでしょうか
参道を見下ろしました
境内に上がって来ました、手水舎です
拝殿です
本殿は覆屋の中です
由来碑です
羽黒神社由来碑
名称 羽黒神社
祭神 大巳貴命(おおなむちのみこと)
祭礼日 正月三ヶ日 4月15日 9月15日 11月15日
由来
創建の時代は明らかではないが、「筑前国続風土記拾遺」に天正14年(1586年)の当社に関する文書の存在を示す起債があり中世のころ出羽羽黒山の修験者によって勧請されたと考えられる。
江戸時代には福岡藩主の深い信仰を受け、その武運長久、家内繁栄、無病息災と五穀豊穣の祈祷所でもあった。社殿等の新改築はその寄進による、特に神殿は荘厳な桃山造りで文化財に相当するものであった、また明治の初めまでは付近の集落の産土神であった。
昭和20年6月19日福岡空襲によって社殿は焼失したが、昭和21年氏子によって再建され現在の社殿は、昭和55年に再建されたものである。
現存する鳥居・燈籠等の石造は江戸時代に建造されたものが大部分であり当社の歴史を示す文化財である。
なを、文化・文政期における福岡藩主の信仰を示す文書も現存している。
平成元年5月吉日
福岡県文化会館資料による
本殿左右の境内社です
参道石段を戻ります
川沿い東に入るとモッコクです
南104号保存樹標識があります
見あげました
帰りに川の向かい側から見ました
では、次へ行きましょう、バスに乗って高宮駅に戻ります
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