2018年3月30日訪問
矢板武記念館は、矢板市役所の直ぐ北側です
国道293号線と県道30号線の本町交差点の北東側に有ります
長屋門が入口ですが~
営業時間前でした
矢板家説明版です
矢板家のあらまし
矢板家は江戸時代までの姓は坂巻でした。
明治3ねんころ坂巻武兵衛は矢板の地名をとって矢板武と名のりました。
そのころ、明治政府は新しく戸籍を作る仕事を始めていましたので、坂巻
武兵衛は矢板武と新しい名前に変える事が出来たのです。
坂巻家の系図によると、坂巻家は戦国時代のころ、甲斐(山梨県)の武田
氏の家来でしたが、武田氏が滅んだのち矢板に来て定住したということです
。坂巻家は代々百姓をしておりましたが、日光北街道が開かれると問屋業も
営んで財産を増やしました。
那須野が原の開拓に尽力した矢板武の祖父(武兵衛)は、高原山などの豊
かな木材を東照宮のある日光方面に送り出す木材問屋をしておりました。そ
のころの日光北街道は悪路で特に鞍掛村付近の山道は坂が急で旅人は難儀し
ました。新道工事には沢山のお金と大勢の労力が必要でしたが完成させ、通
行人に大へん喜ばれるような仕事もしました。
矢板武の父(五衛門)は、この地方の米を(当時は米の取れない)今市や
日光方面に送り出す米問屋をしていました。今市や日光は、日光にお参りす
る人が多かったので、多くの米が必要だったのです。商売も順調に進んでお
りましたが若くしてこの世を去りました。
幼くして両親を亡くした矢板武は祖母の言いつけをよく守って勉学に励み、
しっかりした人になりました。
若い時から村役人などに任命され村人にしたわれ、時代が変わって明治に
なると、この地方の副戸長・区長をつとめ地域の指導者になりました。
その後、那須野が原の開発事業に情熱を傾けたほか、日本鉄道株式会社(
JRの前身)の役員となって矢板に鉄道を通す事に努力し、下野銀行や矢板
銀行などを設けて頭取(代表者)になり、明治初年のころ荒れ果てていた日
光を復興する(元のように立派にする)ため、保晃会という組織を作って多
くの人々から募金を集めて日光のため努力もしました。
このように、この家をよりどころとして、いろいろな分野で活躍しました
。
矢板家は古い家でしたから、明治45年に大修理をして、現在のような邸
宅になりました。
矢板武は主に経済の発展に努力を注ぎましたから、明治から大正時代にか
けて活躍した明治の元勲(国のために大きな功績のあった人)たちとも交際
(つき合い)が多かったのです。三条実美、山縣有朋、品川弥二郎、渋沢栄
一、勝海舟、大鳥圭介などのほか名士の書や大事な品物などが数多く残され
ています。・・・
東側から桜が見えました
西側から見ました
シダレザクラです
説明版が有ります
矢板武旧宅のシダレザクラ 1本
(矢板市指定・天然紀念物)
平成10年2月17日矢板市教育委員会指定
樹高 17,0m
幹周 2,3m
枝張東西12,8m
南北17,1m
推定樹齢 170年
この「シダレザクラ」は、江戸時代後期に植えられたものと考えられます。
市内のシダレザクラの中では樹形・樹勢・花付き共に第一の名木です。
例年4月初旬にソメイヨシノより一足早く開花します。
平成10年3月 矢板市教育委員会
ライトアップがされています
では、次へ行きましょう
矢板武記念館は、矢板市役所の直ぐ北側です
国道293号線と県道30号線の本町交差点の北東側に有ります
長屋門が入口ですが~
営業時間前でした
矢板家説明版です
矢板家のあらまし
矢板家は江戸時代までの姓は坂巻でした。
明治3ねんころ坂巻武兵衛は矢板の地名をとって矢板武と名のりました。
そのころ、明治政府は新しく戸籍を作る仕事を始めていましたので、坂巻
武兵衛は矢板武と新しい名前に変える事が出来たのです。
坂巻家の系図によると、坂巻家は戦国時代のころ、甲斐(山梨県)の武田
氏の家来でしたが、武田氏が滅んだのち矢板に来て定住したということです
。坂巻家は代々百姓をしておりましたが、日光北街道が開かれると問屋業も
営んで財産を増やしました。
那須野が原の開拓に尽力した矢板武の祖父(武兵衛)は、高原山などの豊
かな木材を東照宮のある日光方面に送り出す木材問屋をしておりました。そ
のころの日光北街道は悪路で特に鞍掛村付近の山道は坂が急で旅人は難儀し
ました。新道工事には沢山のお金と大勢の労力が必要でしたが完成させ、通
行人に大へん喜ばれるような仕事もしました。
矢板武の父(五衛門)は、この地方の米を(当時は米の取れない)今市や
日光方面に送り出す米問屋をしていました。今市や日光は、日光にお参りす
る人が多かったので、多くの米が必要だったのです。商売も順調に進んでお
りましたが若くしてこの世を去りました。
幼くして両親を亡くした矢板武は祖母の言いつけをよく守って勉学に励み、
しっかりした人になりました。
若い時から村役人などに任命され村人にしたわれ、時代が変わって明治に
なると、この地方の副戸長・区長をつとめ地域の指導者になりました。
その後、那須野が原の開発事業に情熱を傾けたほか、日本鉄道株式会社(
JRの前身)の役員となって矢板に鉄道を通す事に努力し、下野銀行や矢板
銀行などを設けて頭取(代表者)になり、明治初年のころ荒れ果てていた日
光を復興する(元のように立派にする)ため、保晃会という組織を作って多
くの人々から募金を集めて日光のため努力もしました。
このように、この家をよりどころとして、いろいろな分野で活躍しました
。
矢板家は古い家でしたから、明治45年に大修理をして、現在のような邸
宅になりました。
矢板武は主に経済の発展に努力を注ぎましたから、明治から大正時代にか
けて活躍した明治の元勲(国のために大きな功績のあった人)たちとも交際
(つき合い)が多かったのです。三条実美、山縣有朋、品川弥二郎、渋沢栄
一、勝海舟、大鳥圭介などのほか名士の書や大事な品物などが数多く残され
ています。・・・
東側から桜が見えました
西側から見ました
シダレザクラです
説明版が有ります
矢板武旧宅のシダレザクラ 1本
(矢板市指定・天然紀念物)
平成10年2月17日矢板市教育委員会指定
樹高 17,0m
幹周 2,3m
枝張東西12,8m
南北17,1m
推定樹齢 170年
この「シダレザクラ」は、江戸時代後期に植えられたものと考えられます。
市内のシダレザクラの中では樹形・樹勢・花付き共に第一の名木です。
例年4月初旬にソメイヨシノより一足早く開花します。
平成10年3月 矢板市教育委員会
ライトアップがされています
では、次へ行きましょう