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ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

高知県土佐市、高岡町丙丙「京間の大銀杏」(市指定)です!!

2025-05-20 06:31:21 | 文化財・樹木
 高岡町丙丙地区は、土佐市役所の北東約1kmのところ

 土佐市役所南側の県道39号線を東へ、約1kmの「四万十市・須崎・⇐国道56号線」の標識に従って左(北西)へ

 約500mの信号を右に鋭角に入ったゴミ集積所脇に車を止めさせて頂きました

 東側の仁淀川の土手へ住宅街の中の道路を向かいます

 仁淀川の土手沿いの道路を北西へ

 土手の上にイチョウの木(枝)が並んで見えます

 南側から見上げました

 南西側から、土手に上がれる階段があります

 土手に上がりました

 北西側から

 北側から

 高岡堤防竣工記念碑です

 北東側から

 東側から

 「土佐市天然記念物 京間の大銀杏」の標柱です

 説明版です
   京間の大イチョウ
     土佐市天然記念物  昭和43年4月4日指定
 このイチョウは京間の仁淀川堤防上にあり、大小多数の立木が密生している。
 これらはそれぞれ独立した木のように見えるが、すべて地下で連なる1本の木であり、何回か堤防の嵩上げにより、数m以上が地下に埋まってしまっている。
 根元から分かれた数本の幹や、それらから分かれた二世三世の萌芽枝が、それぞれ根を張り地上に出て成長したことで形成された樹形であり、国内に類例を見ないものである。
 またイチョウは雌雄異株であるが、この木は銀杏のなる雌木である。主幹がわからないので、樹齢の推定は困難であるが、高岳親王に纏わる伝承をもつ古木として市民に親しまれている。

 枝先に新芽が出始めています

 もう一枚古そうな説明版です
   銀杏の古木  建設省所有
     土佐市保護有形文化財 昭和43年4月4日指定
 第52代平城天皇第三皇子高岳親皇(法名眞如)土佐一ノ国折海路入国当時高岡町京間附近は海続きの入り江で唯一の繋船場であったらしく・・・
 現在繁茂せんこの大銀杏に繋船され上陸し・・・
 尚、高岳親皇逆修の塔は清滝寺にあり県文化財に指定されている。
          平成2年7月吉日 建之

 南東側根元?には石仏や石祠が並んでいます 

 仁淀川の上流側、河川敷では田植えの準備が進んでいます

 下流側です

 ライオンズクラブが清掃作業をしてくれています

 大雨や緊急放流の時のサイレンの鳴り方の説明版です、事故に成らないように注意したいものです

 では、次へ行きましょう





 2025・4・8・7・40
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高知県香美市、物部町神池「男池の大柳」(市指定)です!!

2025-05-16 19:36:17 | 文化財・樹木
 物部町神池地区は、香美市役所の東北東約25km、香美市役所物部支所の北約3kmのところ

 香美市役所物部支所東側の市街地道路を北へ、直ぐの交差点を左(東北東)へ、また約80mの丁字路を左(南東)へ下ります

 約200mの大栃駅(バス停)前の交差点で右(北西)へ、県道49号線長瀬ダムのダム湖沿いを道成に進みます

 約700で左(東)へ県道217線で赤い吊り橋の「韮生川橋」を渡ってダム湖の西側へ、渡り切った丁字路を右(北)へ

 ダム湖畔を進みやがて楮佐古川が見えて坂道を上った約2.7kmで「神池・大日寺・高坂3km⇨」の案内板です

 道成に約3.3km進むと「男池の大柳⇒」の案内板です

 ヤマザクラが満開に咲いている側に車を止めさせて頂きました

 ここを斜め左上へ上って行きます

 案内板が有ります

 坂道を上がります

 ここも左へ

 また案内板が有ります

 一段下に目的の大柳があるようです

 民家の庭先で小豆の選別をされていたこの家の方に写真撮影の許可を頂きました

 南側から

 説明版です
   男池(おいけ)・アカメヤナギ(村指定天然記念物 昭和35年3月28日指定)
 この地に伝わる昔噺によると、この池には遠い昔から雄の大蛇が住んでいて大層人々に恐れられていました。
 ある時、門明某という剛胆な鍛冶屋が大蛇を追い出そうと小刀を口にくわえて池に飛び込み泳ぎまわりましたが目的を果たすことができませんでした。
 そこで大金槌を焼いて池に投げ入れました。すると大蛇は悲鳴をあげて逃げ去ったといいます。
 その後、人々は大蛇の祟りを恐れて池の片隅に小さな祠を建て、大明神と崇めて大蛇の霊を祭ったとのことです。
 池の周りにあるアカメヤナギは樹齢500年で、幹周2.82m、樹高14m、横たわる幹や池底を這う根の異様なその姿は竜や伝説の大蛇を想起させます。
               香美市・香美市観光協会

 南側から見上げました

 南西側から

 西側から、太い幹が横たわって大蛇か竜の様ですね

 男池の西側から

 では、次へ行きましょう





 2027・4・7・9・30
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徳島県徳島市、多家良町中津「如意輪寺境内のマキ」(保存樹)です!!

2025-05-12 06:37:11 | 文化財・樹木
 多家良町中津地区は、徳島市役所の南南西約15km、徳島市役所多家良支所の南西約3kmのところ

 徳島市役所多家良支所(標高約10m)西側の道路を南へ、約1kmで家並が切れると少しずつ上りになります

 道成りに約3.7kmのヘアピンカーブの内側に如意輪寺の仁王門です

 約800mで如意輪寺の駐車場(標高390m付近)に入りました

 ここから前回の「如意輪寺の杉」の続きです

 上り切ると本堂前です

 手水舎です

 縁起石碑です
   中津峰山如意輪寺縁起
 当山は観音様お住まいの補陀落山に似て、昔から観音様の信仰深い霊山である。
 戦国時代の永正年中(1504年頃)世が乱れ、当山伽藍は破壊され、本尊如意輪観音様も痛んだ。京都に修理を求めたが洛中も戦乱のため観音様は仏師宅からお姿を隠された。
 時は下り摂津の国、尼崎の浦に小松島の船頭彦太夫が潮待ちのため停泊中、小僧来て小松島まで便乗を求めた、子供故に一度は断ったが、三日後再来「私を乗せると追い風を吹かし一刻(2時間)で到着させる」という、長逗留で早く帰りたい彦太夫はそれを聞き入れ、未の刻(午後2時)出帆、得手に帆を上げ申の刻(午後4時)小松島が見えた。
 彦太夫は船倉の小僧にお礼に行った。暗いはずのその部屋は明るく小僧は後光がさし如意輪観音様のお姿に変身されていた。
 到着後上陸の用意のため村の衆を集めた。だが、先に観音様は海岸の岩上に坐し、「この恩に報いるため、近在の火難を除く(火防観音の由来)」と。その時彦太夫は石をすけお姿の傾きを正した。
 爾来太夫は「助石屋」と呼ばれ、現在子孫が京都に住む。
 阿波国の藩祖蜂須賀蓬庵公は小松島の中田館(中田駅北側)に隠居、不思議な観音様の話を聞き舘の隣に「法輪寺」を建てお祀りした。
 ある夜枕べに如意輪観音様が顕れ「私は中津峰山の観音である。早く山に帰りたい」と仰せられた。蓬庵公はじめ近在の人々が当山にお運び申し上げた。
 初代藩主至鎮公は慶長14年に中津峰山如意輪寺の伽藍堂宇・周辺の山林・田畑を寄進、寛政7年(1795)阿波藩11代治昭公本堂再建。
 明治初年廃仏毀釈の中隆臺和尚と近住の人々の篤い観音信仰により本堂鞘堂を建立。
 明治40年戒賢和尚発願によって銅版を屋根に、百年後平成18年原型通り銅版葺替完成。
       平成21年10月吉祥日    現住 戒乗 誌之


 馬堂です

 オイセさんの像です
 *オイセさん(金村イセ自刀)
 徳島市津田町に生まれ。観音様の夢告により、秘伝の灸を授けられ多くの人々を助けた。
 そのご恩に報い、衆生救済に向かう観音様がお使いになる御馬と馬堂を寄進。
 オイセさんの灸は、万病を治癒したということから、万病平癒、とくに女性の病気に御利益があると伝えられている。
 馬堂内の像は初代天狗久作の作。とくに初代天狗久が頭(デコ)以外まで彫ったものは貴重である。

 すぐ北側にはケヤキの大木です

 北側から見上げました

 こちらのお堂には、庚申様や役行者が祀られているようです
 *神変大菩薩(役行者)様、修験道の開祖、山野を駆け回って修行したことから、足腰などの病平癒、リハビリに御利益があると言われています。

 大師堂です

 お大師様です
   修行大師の由来
 昔々当山にやつれた修行の僧がやってきました、村人は手厚くもてなし体力を回復しました。
 そのお礼に樒(シキミ)とお茶の葉の苗を贈りました。その僧こそ後の弘法大師と言う言い伝えが残りました。
 ご修行中の大師のお姿は全国を行脚し衆生済度のお姿なのです。
      昭和60年10月10日  現住 戒乗 誌之

 三十八社の社と六角堂です

 護摩堂です
 *五大明王様、金剛界曼荼羅の中心の五仏が、強鋼難化の衆生を忿怒相をもって折状するために姿を変えた(教令輪身)のが五大明王様。
 中央の不動明王様と東西南北を守る4人がチームとなって、様々な角度から皆さんの罪障、煩悩を焼き尽くしてくれます。

 慈母観音像です

 不動堂前の保存樹のマキです

 指定番号 第16号の保存樹標識です

 西側から見上げました

 北側から

 境内からの眺めです

 徳島市内を見下ろすことが出来ました

 では、次へ行きましょう





 2025・4・6・8・25
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兵庫県南あわじ市、榎列下幡多「おのころ島神社夫婦松(こえ松)の御神木」です!!

2025-04-29 06:32:24 | 文化財・樹木
 榎列下幡多地区は、南あわじ市役所の北北西約2kmのところ

 南あわじ市役所西側の道路を北北西へ三原川右岸を進みます

 約1.7kmで三原川左岸に渡り更に北北西へ進みます

 約500mで「おのころ橋」を渡り返すと間も無く左手に赤い大鳥居があります

 南側の駐車場に車を止めました

 駐車場の南あわじ市観光案内図です、現在地は中央やや上の位置です
  国生み神話
 日本で最古の歴史書「古事記」の冒頭を飾る「国生み神話」。
 そこには伊弉諾尊・伊弉冉尊の二柱の神様が生まれたばかりの混沌とした大地を天沼矛で「塩コオロコオロ」とかき回すと、矛先から滴り落ちた塩の雫が固まって「おのころ島」ができたと記されています。
 おのころ島で夫婦となった伊弉諾尊・伊弉冉尊は、日本列島の島を次々と生んでいきます。その中で最初に生まれた島が淡路島です。
  天の浮橋(西約400m)
 天と地との間を神が上り下りした道にかかる橋で、伊弉諾尊・伊弉冉尊は天の浮橋に立って天の沼矛を持って、海原をかき回したと伝えられています。
 「淡路常磐草」には「田間の細流に渡せる二三尺許の古石端なり」と記述されています。
  葦原国(西約800m)
 海辺に葦が茂っていて、その中に五穀豊穣の沃土(質の良い土)があるという、古代伝承に基づく日本国の別の呼び名です。
 「淡路常磐草」には「田間に方一二丈許葮葦の叢生したる處小祠あり天照大神を祭る云按するに是亦豊葦原瑞穂國我邦の惣名なるを」と記述されています。

 「磤馭盧島神社」社號標です

 手水舎です

 説明石碑です
   磤馭盧島神社
    御祭神 伊弉諾大神・伊弉冉大神・菊理媛命 合祀
  由緒
 当神社は、古代の御原入江の中にあって、伊弉諾・伊弉冉大神の国生みの聖地と伝えられる丘にあり、古くからおのころ島と親しまれ、崇敬れてきた。
 古事記・日本書記によれば、神代の昔、国土創成のときに、二神は天の浮橋にお立になり、天の沼矛をもって海原をかき回すに、矛より滴る潮が、おのずと凝り固まって島となる。これが磤馭盧島である。
 「二神はこの島に降り立たれ、八尋殿を建て、先ず淡路島を造り、つぎつぎと大八洲を拓かれた」となっている。
 また古書に、誉田大王・淳仁帝の参幸されたことが伝えられている。
  御神徳
 健康長寿・良縁堅結・夫婦和合・子孫繁栄
        昭和54年11月29日 洲本おのころライオンズクラブ 建之

 参道石段を上ります

 右手には「鶺鴒石(せきれいいし)」です

 拝殿です


 本殿です

 こちらにも由緒説明版です
   おのころ島神社由緒
     御祭神 伊弉諾尊・伊弉册尊・菊理媛之命
 古事記・日本書記によると諾册二尊は、当おのころ島にて宮柱を立て、神様と日本の国々をお生みになったと書かれてあり、実に日本の八百萬の神様の親神様であります。
 日本の国土と日本民族と日本の神様の三者の大祖先の神様であります。
 日本の発祥の地、おのころ島神社は日本の原点を省みて、将来の日本を考える、人々にとって忘れることのできないできない尊いお社であります。
   御神徳
 1,夫婦和合の神
 1,縁結びの神
 1,産砂の神
 (1)安産の神
 (1)交通安全の神
 (1)神学の神

 目的の「夫婦松(こえ松)御神木」は、この中にあります


 大きな松の木の幹が横に成っています、御賽銭が載せられています

 八百萬神社です

 八百萬神社由緒・八百萬神社は、おのころ島神社の摂社にて本社の御祭神は国生み神生みをなされた、親神様の御神徳をたたえ、ここにその御子等の神々を、八百萬神としてお祀りしてあります。

 では、次へ行きましょう




 2025・4・4・10・10
 
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三重県伊賀市、柏野「轉輪寺の七本松」(市指定)です!!

2025-04-24 18:36:21 | 文化財・樹木
 柏野地区は、伊賀市役所の北東約9kmのところに轉輪寺があります

 伊賀市役所の西側の道路を北へ、約500mの名阪国道の高架をを潜った八反田橋を渡った交差点を右(東)へ

 名阪国道の側道を進んで「友生IC」で名阪国道に乘って名古屋・四日市方面へ進みます

 約7.3kmの「壬生野IC」を降りて、鋭角に左(北西)へ、県道679号線です

 約800mでからは県道49号線となって、JR関西本線を陸橋で越えて坂道を上ります

 間も無く「伊賀の国」の休憩所の先を左へ下り、JR関西本線の線路沿いを左(東)へ

 約800mで左手に轉輪寺が南向きにあります

 参道脇に車を止めさせて頂きました

 「曹洞宗 大通山 轉輪寺」寺号標です

 境内に上がると目的の七本松です

 舟形の手水鉢です

 本堂です

 北側から見上げました、根元には石塔が並んでいます

 北西側から見上げました、樹高9.6m、幹周54~78cmの幹が7本集まっています

 西側から、七本の細い幹が一カ所から伸びています

 境内西端に離れて見ました

 では、次へ行きましょう



 
 2025・4・3・14・30
 
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愛知県知立市、西町神田「知立神社のトネリコ」(市指定)です!!

2025-04-22 06:37:21 | 文化財・樹木
 西町神田地区は、知立市役所の北西約1.5kmのところ

 知立市役所東側の県道285号線を北北西に道成りに進みます

 約700mの「山町」信号を左(西北西)へ、県道51号知立東浦線です

 約1.1kmの「西町」信号を右(北東)へ、県道155号線です

 間も無く陸橋を左の側道へ下りて次の信号左手に知立神社が南向き参道で鎮座します
 
 知立神社境内に車を止めさせて頂きました知立市役所の

 「延喜式内 知立神社」の社號標です

 一ノ鳥居です

 多宝塔です

 説明版です
   知立神社多宝塔
     国指定重要文化財(建造物)
     明治40年5月27日指定
 嘉祥3年(850)僧円仁が神宮寺を創建して知立神社の別当寺とし、多宝塔を建立したといわれています。
 その後天文16年(1547)兵火により寺は焼失しましたが、多宝塔は永正6年(1509)再建と伝わっており、天文の災禍を免れた神宮寺の遺構と考えられます。
 相輪先端までの高さは約14.5m、屋根は杮葺、四隅に宝珠を置きます。これらは明治の廃仏毀釈の際に取り外され、神社の文庫として難を逃れたもので、大正9年(1920)の解体修理の際に復元されました。
 本尊であった愛染明王は廃仏毀釈で撤去されたまま現在は総持寺安置されています。
 和様を基調とした均整のとれた多宝塔であり、全国的にも遺構の乏しい神宮寺の建築を知る上で貴重なものです。
         知立市教育委員会

 西側の正面から見上げました

 石製の太鼓橋です

 説明版です
   知立神社の石橋
     市指定文化財(建造物)
     昭和44年4月1日指定
 この橋は、半円形に反った太鼓橋で、すべて花崗岩で組まれている。全長6.6m、幅2.4m、高さ1.68mを測る。石の桁を弧状に通し、その上に橋板である厚さ12cmの石の板19枚が並べられている。
 欄干南側右柱には「享保17年(1732)11月吉日敬白」と刻まれている。
 「東海道名所図会」には「石橋は神籬の外にあり、池を御手洗という、片眼の魚ありとなん」と書かれている。
 片目の魚は、身代わりとして娘を目の病から救ったためとの言い伝えがある。
          知立市教育委員会

 南西側から、池には錦鯉が泳いでいます

 境内西側の社務所前に手水舎です

 手水舎の後側に目的のトネリコです

 説明版です
   トネリコ
     市指定文化財(天然記念物)
     昭和57年6月10日指定
 モクセイ科の落葉小高木で、別名サトトネリコ。
 本州中部以北の山地に自生し、人家や田の畦にも植える。葉は羽状複葉で、春に淡緑色の細花をつける。雌雄異株。
 樹皮を秦皮と称し、神経痛・リュウマチ、赤痢などの治療に用いる。また材は堅く弾性があるため建築・家具材や野球のバットにも用いられる。
 西三河では最古のトネリコといわれている。高さは約9m、南北の枝張りが8.3m、根回りは3.4m、幹の太さは1.95mに及ぶ。
 境内には他にもトネリコがある。
           知立市教育委員会

 北側から

 離れて見ました

 拝殿です

 境内東側には「秋葉神社」です

 於万の方像です

 神馬舎です

 拝殿の並びには知立神社摂社の「親母神社」です

 「合祀殿」です

 東端に「小山天神社」です

 杮葺の本殿屋根を見る事が出来ました

 では、次へ行きましょう



 2025・4・3・7:55
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静岡県静岡市、清水区梅ヶ谷「真珠院の梛(ナギ)」(市指定)です!!

2025-04-20 06:36:54 | 文化財・樹木
 gooブログが11月に終了ということになり、今後どうしたものかと迷っています

 フォロワーさんの中には早々、移動を実施された方もいらっしゃるようですが、もう少し考えたいと思います

 ここからは、2025年4月2日より17日の間に、2024年6月の四国八十八ヶ所の34番房所まで廻った続きをしようと出かけました

 今回は、直接淡路島まで行かずに、静岡県・愛知県・三重県で取材をしながら進みましたので、一日3回順次投稿したいと考えています

 では・・・

 清水区梅ヶ谷地区は、静岡市役所の北東約10km、清水区役所の北西約5kmのところです

 清水区役所の西側の国道149号線を北へ、約1kmの「清水駅前」信号を左(西)へ、県道4号線です

 約700mで県道67号線に変わって更に西へ進みます、約1.6kmで国道1号静清バイパスを潜ると梅ケ谷新道を北西へ進みます

 約2.1kmで右手に「真珠院」の参道に沿う様に駐車場が有ります

 駐車場の南側に真珠院の参道入口が西向きにあります

 参道を北へ進みます

 駐車場脇の祠は白山権現です

 六地蔵様です

 山門です

 「曹洞宗真珠院」です

 山門を入ると左手に目的の梛(ナギ)です

 北東側から

 説明版です
 静岡市指定文化財天然記念物
   樹木名 梛(ナギ:マキ科マキ属)
   〈通称 真珠院の梛〉
 樹高      18.5m
 主幹胸高 直径  79cm(表記が違っているようですので円周率で計算してみました)
      幹周 249cm
 根元部位 直径 111cm
      幹周 350cm
 推定樹齢    600年

 北側から

 天然記念物標柱です

 西北西側から見ました

 本堂です

 説明版です
   真珠院概況
 当山は元、真言宗に属し、今川範国公の開創した国光寺で、当時は今川家の別荘があった処である。
 その後、今川義忠公は。1382年祖先の遺風を追慕して寺を再興し曹洞宗鳳凰山真珠院と改宗した。
 1452年、洞慶院3世大巖禅師の法嗣、賢窓常俊大和尚を開山に拝請した。師は大平山渓畔の石上に木喰坐定し道誉は近郷に名高かった。
 本尊は、釈迦牟尼佛で運慶の腹ごもりの作と伝えられている。
 境内は2063坪あり曹洞宗の綿密な道場で禅風を宣揚している。境内には青面金剛尊(年代不詳)秋葉三尺坊大権現(1696年)鎮守白山妙理大権現(1523年)花山天神(1745年)不動明王尊(1746年)を祭祉している。
 当山は、今川家代々諸公の崇敬を戴いた。徳川家康は朱印地を15石と改め寺領として下附された。又、駿府在城の時(1601年)住僧6世鳳巖全察和尚を召されて佛法を聴聞された。
 開山当時は、七堂伽藍の形態を整えていたが、文化9年(1813)明治9年(1876)と二度の火災を受け、殿堂、什宝等多くの文化財を失ったことは残念である。
 山門に掲げた鳳凰山の額(1744年)は、昭和55年清水市の文化財に指定された。
 山門側の梛(ナギ)は、昭和54年清水市の天然樹木に指定された。
 昭和の中期より鐘楼堂、開山堂、位牌堂、玄関、庫裡等が建立され境内が整備された。
       昭和56年  高部まちづくりの会

 では、次へ行きましょう




 2025・4・2・14・50
 
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千葉県流山市、流山6丁目「光明院のタラヨウ」(市指定)です!!

2025-04-13 06:35:00 | 文化財・樹木
 流山6丁目は、流山市役所の南南西約1kmのところです

 流山市役所を北へ出て県道278号線を西へすぐの「流山1丁目」信号を左へ、県道5号線です

 約700mの「流山5丁目」信号を右(西北西)へ、約150mの横断歩道を左(南西)へ天晴通りです

 約300mで左手に光明院の広い駐車場が有りますので車を止めさせて頂きました

 天晴通り側に西北西向きの参道入口です

 「赤城山光明院」寺号標です

 案内板です
   光明院(こうみょういん)
 創建は不詳。赤城神社の別当祈願所であった真言宗(しんごんしゅう)の寺院。
 山号は赤城山(あかぎさん)。本尊は不動尊(ふどうそん)。
 境内には双樹と一茶の連句碑、秋元双樹の墓、大日如来像の庚申塔(こうしんとう)などがある。

 *赤城神社は、直ぐ南東側に、西北西向きの参道で鎮座します

 参道左にマキの木です

 六地蔵様です

 山門です

 文化財説明版です
   菩薩坐像(光明院・旧長福寺)
     流山市指定有形文化財 第5号
 かつては中・旧長福寺にあったもので、現在は光明院に安置されている仏像です。
 像はヒノキ材を使い、頭と体の主要な部分を一材で彫り出しています。手や足は別に造られ、体部にはぎつける構造でしたが、今は失われており、現在の高さは49.2cmです。
 当初は全身に漆箔を施し、額中央の白毫には水晶がはめ込まれ、金色に輝く尊像であったと思われます。
 頭部をやや右に傾ける姿勢や腕をはぎつける面の広さから。六臂(腕が6本)で右脚を立てた如意輪観音であったと推定されています。
 丸いふくらみのある顔ややわらかな肉身、高く華やかな髷などの特徴から鎌倉時代(13世紀後半)の作とおもわれます。
       流山市教育委員会

 山門を入ると右手に「松本翆影」の句碑です

 説明版です
   松毬の からからと秋気 澄にけり
  松本翆影(1891~1976)
 本名、半次郎。明治24年(1891)6月6日、流山の材木商の家に生まれる。
 当時の当院住職の勧めに従い、豊山中学校に入学、3年生の時、縁あって俳人内藤鳴雪に師事。
 やがて早稲田大学に進んだが、家業のため中退帰郷、明治44年(1911)郷土の先輩秋元洒汀を擁して流山で発行した俳誌「平凡」(のち「つぼみ」と改題)は、夙に世に知られた。
 大正3年(1914)家業を廃し上京、俳誌「新緑」「ましろ」等の編集発行人をつとめ、昭和14年(1939)主宰誌「みどり」を発刊、以後これに拠った。
 多くの職歴を経たが、特に話芸に秀で、その方面の活躍にも顕著なものがある。
 碑は別に、東京上野山内の西郷像の後方、秋色桜碑の脇に、「鶴の檻 さくら吹雪の 中にあり」があって、名句碑とされる。
 昭和42年(1967)、喜寿を祝って知友から贈られたもので、同山内の現代俳人の句碑は、これのみという。
 昭和51年(1976)3月6日没。行年84歳。菩提寺当院に眠る。戒名、俳徳院湛露翆影居士。

 鐘楼です

 本堂前に目的のタラヨウです

 南側から

 流山市指定天然記念物第3号 光明院のタラヨウの標柱です

 説明版です
   多羅葉(たらよう)〈モチノキ科の常緑高木〉
 通称「はがきの木」。たらようと言う名は、インドで葉面に経文を書きしるした貝多羅樹(ばいたらじゅ:ヤシ科)にその葉を比して名づけられたもの(ちなみに世界最古の貝多羅葉般若心経写本〈8世紀後半〉が法隆寺に伝えられている)。
 葉の裏に、爪や、マッチの軸等で字や絵を描くことができ、長く残る。”葉書”の語源の説もある。
 花は5月上旬ごろ。緑黄色で、一年おき、西暦奇数年に木全体に咲く。
 尚、中国の李白の詩や、「南総里見八犬伝」等の中に葉の手紙が出てくる。

 本堂です

 東側から

 北東側から見上げました

 では、次へ行きましょう




 2025・3・21・12・25



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岐阜県中津川市、苗木「自生のヒトツバタゴ」(県指定)です!!

2025-04-08 18:33:00 | 文化財・樹木
 苗木地区は、中津川市役所の北西約6km、中津川市苗木事務所の西北西約1kmの所に「自生のヒトツバタゴ」があります

 中津川市苗木事務所前の国道257号線の「苗木」信号を西北西へ

 約1kmの「メタセコイア」の立つ手前を左(南南西)へ

 約300mで左手下に目的のヒトツバタゴが見えて来ました

 道路脇に車を止めさせて頂きました

 西側から坂道を下りていきます

 大きな樹冠のヒトツバタゴです

 南側から見上げました

 根元に「県天然記念物 自生ヒトツバタゴ」の標柱です

 説明版です
   岐阜県指定天然記念物
     自生ヒトツバタゴ
         所在地   中津川市苗木1880-1
         指定年月日 昭和33年12月14日
 ヒトツバタゴはモクセイ科の植物で、国内での分布は木曽川中流域と対馬のみである。
 5月ごろ四裂して細かく白い花が咲き、満開の時には雪のようである。
 非常に珍しく見慣れない木であるため、「ナンジャモンジャの木」ともいわれる。
   目通周囲:1.25m、 樹高:11.2m
             中津川市教育委員会

 北側から

 南西側から見ました

 では、次へ行きましょう




 2025・3・2・14・50
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岐阜県中津川市、蛭川田原区「しだれガキ」(県指定)です!!

2025-04-08 06:33:00 | 文化財・樹木
 蛭川田原区は、中津川市役所の

 中津川市蛭川総合事務所西側の道路を南南東へ進みます

 約3.2kmの横断歩道のある交差点で県道72号線です、

 県道を横切って進むと左手に目的のしだれガキが見えました

 すぐ先の溜池脇に車を止めさせて頂きました 

 北西側から

 西側道路から

 西側から

 「岐阜県天然記念物 しだれガキ」の標柱です
 *指定年月日は昭和47年(1972)6月17日です。

 南側から

 南東側から見ました
 *この木は枝が垂れ下がる珍しい性質があり、果実は小さく渋みが強い珍種だそうです。

 では、次へ行きましょう




 2025・3・2・14・30
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岐阜県恵那市、山岡町下手向荒木「 普門寺のハナノ木」(市指定)です!!

2025-04-04 06:31:00 | 文化財・樹木
 山岡町下手向荒木地区は、恵那市役所の南南西約13km、恵那市山岡振興事務所の直ぐ西の地区です

 恵那市山岡振興事務所の南西約800mの所に、南向き参道で普門寺があります

 恵那市山岡振興事務所北側の県道33号線を西へ進みます

 約850mの「下手向」信号を左(南)へ、県道405号線です

 約500mで「普門禅寺」の寺号標の建つ交差点を左(東)へ

 約200mで道路左側(北側)に普門寺の駐車場があります

 すぐ先に参道入口です

 「曹洞宗 龍雲山 普門寺」の寺号標です

 山門です

 手水舎です

 本堂です
 *創建は寛永3年(1627)と伝えられる。
 当寺第5世和光拈調は何処かへ去ったといい、その後は荒廃した。
 宝永4年(1707)盛久寺第6世 快信の弟子の大牛が当寺を再興したという。

 目的のハナノ木は境内東端です

 西側から

 天然記念物標柱には「ハナノ木」となっています

 東側の門を出て北側から

 東側から

 南東側から見ました

 では、次へ行きましょう




 2025・3・2・12・50
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岐阜県恵那市、明智町(宮町)「八王子神社の明智光秀公手植えの楓」(市指定)です!!1

2025-03-31 19:37:14 | 文化財・樹木
 明智町は、平成16年(2004)10月25日に旧恵那市と恵那郡の岩村町、山岡町、串原村、上矢作町と合併によって〈新〉恵那市が発足しました

 明智町(宮町)は、恵那市役所の南約18km、恵那市役所明智振興事務所の北東約600mに八王子神社が西南西参道で鎮座します

 恵那市役所明智振興事務所の東側の県道11号線を北へ

 約500mの「明智駅前」信号を右(東)へ

 八王子神社前に出ました

 駐車場がないので、少し戻った「日本大正村」(観光施設)の駐車場に車を止めさせて頂きました(恵那市観光協会もこちらをおすすめしています)

 「金幣社 八王子神社」社號標です

 ここからが前回からの続きです

 拝殿前北側に目的の「明智光秀公手植えの楓」です

 説明版です
   柿本人麻呂社・明智光秀公手植えの楓
 八王子神社は、天暦3年(949年)に創建された、千年の歴史をもつ由緒ある神社です。
 社殿や、明智城の大手門を移築したとされる唐門(破風には丸の二つ引両の紋)、明智光秀公の先祖である源頼光公の羅生門図の絵馬など、多くの岐阜県重要文化財が残されています。
 また、この境内には、百人一首で有名な万葉集の歌人、柿本人麻呂公を祭神とする柿本人麻呂社が祀られています。
 伝承によれば、文武を志す明智光秀公が、学問所には天神神社を、八王子神社には柿本人麻呂社を祀り、社前には紅葉(楓)を植えたと伝えられています。
 この社殿の破風には、明智氏の家紋である桔梗紋は彫られ、大和絵風の歌聖柿本人麻呂公の画像が祀られています。
 明智光秀愛宕百韻「ときは今 あめが下知る 五月かな」。歌人としても才覚をみせた明智光秀公の原点がここにあります。

 東側から

 西側から

 幹の根元にはサルノコシカケ科のキノコが生えていました

 楓の直ぐ北側に「柿本人麻呂社」です

 脇に説明版です
   明智八王子神社(949年創建)
     彫刻「麒麟」の由来
 明智城(土岐明智城)の落城(1556年)で明智十兵衛光秀は、叔父土岐光安(後に遠山景行と改名)の計らいに寄り嫡男光春をお供に越前朝倉氏に落ち延びた。
 その後、織田信長に仕え、絶える事の無い戦乱の世を治めるべく「平の世が来れば麒麟が現われる」と平穏の世を願い、信長と共に天下統一を目指した。
 光秀末裔となる明智遠山氏4代伊次が世継の安寧と平の世を願い八王子神社再建時(1676年)、奥殿に麒麟の欄間を掲げた。(彫刻は3枚の内の1枚)

 社殿北側に境内社が並んでいます、西側から「熊野三所大権現」の社です

 「春日大明神」です

 「八幡大神」です

 「神明」です

 由緒書きが有ります、御祭神は「国常立尊(くにのとこたちのみこと)」です

 さらに祠が並びます、左から式座神社・天神神社・若宮八幡神社・稲荷神社・諏訪神社・軍神神社です

 石祠も並んでいました

 杉の木が密植されています

 札が設置されています
   巨木 大杉
 *幹が茂り結び、根を張り広がり、絆を深める処。
 *縁結び子宝・夫婦円満、年輪を重ね気持ちを伝える、特別な処。
 *積み重ねた気持ちの伝わる処。
     金幣社 八王子神社

 南側から見ました

 では、次へ行きましょう




 2025・3・2・11・05 2025/03/14 15:49:13
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愛知県豊川市、足山田町滝場「服織(はたおり)神社のツガ」(市指定)です!!

2025-03-29 06:38:53 | 文化財・樹木
 足山田町滝場地区は、豊川市役所の北東約6kmのところ

 豊川市役所南側の「豊川市役所東」信号を東南東へ、県道5号線です

 約450mの「佐奈川」の橋を渡って直ぐの信号を左(北東)へ川沿いを進みます
 
 約1.2kmの「荒古橋南」信号を左(北北西)へ、県道31号線です

 約500mの「本野町東浦」信号からは、県道334号線となって進みます

 約2.8kmの信号を右(東北東)へ、県道21号線です

 約2.2kmで左手(北側)に服織神社の石段奥に鳥居が見えました

 少し先の県道脇に車を止めさせて頂きました

 鳥居です

 「郷社服織神社」社號標です

 参道は直角に左に曲がってニノ鳥居です

 参道先に拝殿です

 手水舎です

 目的のツガです、東北東側から
. 
 北側から

 説明版です
   市指定天然記念物
     服織神社のツガ 昭和36年3月28日指定
 このツガは、地元では永くイチイの木であると思われていて、一位に通じることから服織神社の神木的な扱いをうけ、大切にされてきました。
 実は長卵形をしており、枝の端に下向きについています。樹齢はおよそ200~300年と考えられています。
         豊川市教育委員会

 西側から、規模は幹周2.1m、樹高18mです

 拝殿です


 本殿の屋根が見えました
*社伝によると、第21代雄略天皇の朝(四五七~九〇)養蚕機織守護神として、天機姫命を勧請奉祀して服織天神を奉斎したとされています。
 平安時代に記された「三河国内神名帳」には、「服部天神 坐宝飯郡」という記載があることから、平安時代までさかのぼることができます。棟札も鳥羽大明神や鳥羽明神と記されています。
 慶長10年(1605)武田の家臣山本四郎左ヱ門が現在の境内に社殿を造営遷座したのもので、明治6年に村社、同40年10月26日に共進指定をうけました。昭和5年2月28日には郷社へ昇格しました。
*御祭神は、天機姫命という女性の神様です。
 また羽鳥大明神と呼ばれ服織神社の名前の由来になったと言われています。
 天機姫命は衣類を織る神様として知られており、千両町にある犬頭神社で繭が生まれ、東上町にある籰操神社(わくぐり)で糸にされ、最後にこの服織神社で反物を織ったとされる神話が残っています。(以上服織神社のホームページから一部抜粋)

 本殿南側に境内社が並びます

北側の境内社です

 では、次へ行きましょう



 2025・3・2・7・35
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静岡県浜松市、浜名区細江町気賀「二宮神社のホルトノキ、ナギ」(市指定)です!!

2025-03-27 06:31:25 | 文化財・樹木
 細江町気賀地区は、浜名区役所の西約13km、北行政センターの西約1.5kmのところに二宮神社が南西向きに鎮座ます

 浜名区北行政センター北側の道路を東へ出ます

 約400mで信号を左(北)へ、県道49号線です

 天竜浜名湖鉄道の高架を潜った約200mの信号を斜め左(北西)へ、国道362号線です

 約1.8kmの橋を渡った所で斜め右(北西)へ、直ぐの丁字路を左(西南西)へ

 また直ぐの自動販売機の所を斜め右(西北西)へ、間も無く右手に二宮神社です

 道路脇に説明版があります
   浜松市指定天然記念物
     二宮神社のホルトノキ
     二宮神社のナギ
 ホルトノキは社殿前の傾斜地にあり2本が根際合着している。
 目通りが2mを超えるものは稀と言われるなか、下方のものが2.7m、上方のものが2.4mある。
 ナギはホルトノキに接するように立っており、目通り賀2.4mの県下屈指の巨木である。
   ホルトノキ
 ホルトノキ科の常緑高木で暖地~亜熱帯に分布する。
 平賀源内が、オリーブの木と勘違いしポルト(ポルトガルのこと)の木と呼んだことからこの名が付いたとも言われている。
   ナギ
 マキ科の常緑高木で暖地~亜熱帯に分布する。広葉樹のような葉の形をしているが針葉樹である。
 このため、葉が千切れにくく別名チカラシバ、ベンケイナカセなどとも呼ばれる。
        昭和53年6月16日指定   
        平成30年3月    浜松市教育委員会

 参道石段上に見えているのがホルトノキです、ナギは陰になってしまって見えません

 石段上部左手に目的のホルトノキです

 2本の幹が並んでいます

 細江町指定天然記念物ナギ・ホルトノキの表示板です

 石段上側から見ました

 ホルトノキの上側にナギです

 同じ高さの石段から

 少し上から
 
 拝殿前から振り返ってみました、ホルトノキは、かなり傾いています

 拝殿です

 本殿覆い屋です

 説明版です 
   二宮神社
 宗良親王の妃、駿河姫を祭神とする。
 南北朝時代の初期、後醍醐天皇の皇子宗良親王は、南朝勢力の増強をはかって、井伊谷(引佐町)の豪族井伊道政のもとに滞在していた。親王は道政の娘駿河姫を妃とし一子伊良親王をもうけたといわれている。
 延元3年(1338)1月(3月の説も)、親王は、奥州からの北畠顕家の軍と浜名の橋本(新居町)で合流し、京都に上ろうと井伊谷を出陣した。駿河姫も親王を見送るためこの地まで来たが、急病になって翌日10日に亡くなった。
 近くの金地院で火葬をし、親王の御座所のあった所に社殿を建て、姫の持っていた鏡を祀って二宮神社とした。境内社の若宮神社は伊良親王を祀っている。
 なお境内のホルトノキ2株とナギ1株の大木は、ともに細江町指定天然記念物である。
         平成元年3月20日    細江町教育委員会

 では、次へ行きましょう


 
 2025・3・1・16・15
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静岡県浜松市、浜名区細江町気賀「気賀近藤陣屋遺木江戸椎」(市指定)です!!

2025-03-26 18:37:43 | 文化財・樹木
 細江町気賀地区は、浜名区役所の西約13km、北行政センターの北東約600mのところに気賀陣屋跡があります

 浜名区北行政センター北側の道路を東へ出ます

 約400mで信号を左(北)へ、県道49号線です

 天竜浜名湖鉄道の高架を潜った約200mの信号を斜め左(北西)へ
 
 約100m押し釦信号を右(北)へ、坂道を上っていくと

 正面に目的のシイが見えて来ます

 左(西)に曲がった道路脇に車を止めさせt頂きました

 気賀近藤陣屋跡は「浜松市立気賀小学校」となっています

 南西側から

 西側から

 説明版です
   細江町指定天然記念物
     気賀近藤陣屋遺木江戸椎
 気賀小学校とこの付近一帯を陣中といい、江戸時代、旗本近藤家の陣屋(屋敷)があった所です。
 近藤家は、気賀の領主で、気賀関所も近藤家が治めていました。
 この椎の木は、陣屋の庭に植えられていたものといわれ、現在陣屋の面影を残すものはこの椎だけです。
 この椎の実はとても大きく、近藤氏が毎年この実を幕府に献上したことから、江戸椎と呼ばれるようになりました。
     細江町指定 昭和41年1月27日
               平成6年10月1日    細江町教育委員会
 *細江町は、平成17子(2005)7月1日に 周辺11市町村とともに浜松市に編入されました。
 *平成19年(2007)4月1日に浜松市が政令指定都市へ移行したのに伴い、浜松市北区の一部となった。
 *平成24年(2012)3月31日には細江地域自治区が廃止され、令和6年(2024)1月1日に浜松市の行政区が再編されたのに伴い、浜松市浜名区の一部となった。
 *旧細江町役場は浜松市細江総合事務所となりましたが、平成19年の政令指定都市移行に伴い、細江総合事務所は浜松市北区役所となった。さらに令和6年の行政区の再編に伴い、北区役所は浜名区役所北行政センターとなった。
 
 南東側から見ました

 では、次へ行きましょう


 

 2025・3・1・16・05
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