昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

寄りそいあって生きた時代

2016年05月14日 05時04分35秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

貧乏であったあの頃が、とても懐かしい
いいや
貧乏でも、一生懸命生きた
あの頃の自分が 愛しい
・・・
である
 
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昭和33~35年 ( 1958年~1960年 )
・・・私が物心のついた頃の時代である。
母親は共同の井戸で水を汲み、
「 天秤棒水桶 」 を、かついで持ち帰り、
家の 「 水瓶 」 に、溜めた。
水瓶の水を、柄杓 で梳くって飲んだ。
井戸端での洗濯は たらい と 洗濯板
井戸の水が涸れることもしばしば有った。
私の母は、遠く 蒲刈中学校の井戸まで、水を汲みに行った。
水汲みは たいぎかった と云う
たいていは 手押しポンプ の着いた井戸であったが、釣瓶式 も多かった。
私は 未だ幼くて
天秤棒をかついで水を汲みに行く手伝い
には、及ばなかった。
「 しちりん 」 で、魚を焼いて、「 クド 」 で、ご飯を炊いた。
「 釜 」 の中身は麦飯も珍しくなかった。


米のご飯に麦を混ぜるのでなく、
麦のご飯に米を混ぜたのである。
たいていは、大勢の家族、口は多い。
だから 米の量を補う為に、芋を混ぜた、「 芋飯 」 で、腹を大きくした。
「 ステーキ 」 ・・・詞すら知らなかった。

(二段に積まれた)石の臼の中央に穴があいている
ここにに大豆を入れて挽くと、一段目と二段目の隙間から 白い粉が出てくる
此を、ハッタイ粉 と謂う
砂糖も貴重品のこの頃、
その砂糖を少し混ぜたハッタイ粉を、ご飯にまぶして食べる
・・・、それは、たいそう御馳走であった。
お湯で捏ねてあんこにして食べる・・・、
それは、至福の瞬間だつたのである

我が子に、
ひもじい思いをさせまいと、
親は必死に働いた。
母親は自分は喰わずとも、
我が子に喰わそうとしたのである。
これを慈母の愛という。


名も無く 貧しく 美しく
母と一緒に「向」の映画館で観た
少年の心には、何とも謂えぬ 哀しみが残った
この映画を創った時代
この映画を観て 泣いた 日本人の心
・・
日本人の心は、何処へ逝ってしまったのだらうか


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2 コメント

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昭和様へ (くりまんじゅう)
2016-05-14 14:04:13
こちらのblogはいつも懐かしさで涙が出そうになります。
貧しくも懐かしく 親が子をかわいがり 家族が仲良く暮らした
良き時代でした。 名もなく貧しく美しく は心に深く残る
作品です。 最後の高峰秀子さんが亡くなるシーンは
何年たっても目に焼き付いています。モノにもお金にも
不自由した時代でしたが 今から思うと幸せな子ども時代を
送ったとしみじみ思います。
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寄りそいあって生きた時代 (唯我独尊)
2016-05-14 15:08:40
くりまんじゅう様
「幸せな子ども時代をおくった」・・・そのとおりですね
親が我が子の為に、一生懸命だったからこそ・・と、そう想っております
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