昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

「 捨ててきなさい 」

2021年03月28日 04時23分38秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

昭和35年 ( 1960年) 頃
祖父母の家に、「 ジョン 」 という雑種犬が存た。
私の顔を見ると吠える。
「 犬は人を見る 」
恐がるからバカにされて吠えられるのだと母が教えて呉れた。
さもあらん。
私が態度を変えると やがて吠えなくなった。
そして、私に懐く様になったのである。
外の路から 「 ジョーン 」 と、呼ぶと、二階家の階段から一直線に駆け下りてくる。
そして、私に駆け寄り 顔を舐める。

私は、そこまで懐いて呉れたことが嬉しかった。

「 犬を飼いたい 」
・・・と、そう想った。

昭和36年 ( 1961年 ) 7歳・小学一年生の私は、
小学校からの帰り、弁財天神社下の顔見知りの小母さんから子犬を貰った。
家に連れ帰ると、母が叱る。
「 返してきなさい 」
どうしても、犬を飼いたかった私。
「 自分で面倒をみるから 」
・・・と、そう言って許してもらったのである。
ところが、飼ってみると 意外、存外、これは大変だということが解かった。
餌を与えることも さること乍ら、夜になると啼くのに困った。
クンクン 啼くばかり。 気になって私が眠れなかった。
犬を飼いたくて、飼いたくて、
子犬を貰ったものの、持て余して
「 三日坊主 」 で、手放した。
子犬は母の計らいで、 「 向 」 の親戚の家に引き取ってもらった。
なさけない幕引きであった。


 テリトリー

「捨ててきなさい」
翌年の昭和37年 ( 1962年 )、
下島の ニーナ ( 巻貝 ) 捕り の川に遊びに出かけた。
然し、そこは男の子、それだけではもの足りない。
もっと向こうを探索しようと、海辺のフグの養殖場辺りまで足を伸ばしたのである。
そこで、
偶々 捨猫 を見つけた。
私は、犬は好きでも猫は嫌いだった。 ・・・けれど。
「 ミャーミャー 」 ・・・なんとも弱弱しい。
ほっといたら 死ぬだろう ・・・そう想った。
そして、子猫のそんな鳴き声に、つい不憫と想い 抱上げてしまったのだ。

家に持ち帰えると、
やはり 母は反対した。
「 捨ててきなさい 」 ・・・と言う。
私には 「 三日坊主 」 の、前科がある。
小犬もろくに飼えなかったのに、子猫なぞ飼える筈もなかろうに。
さもあらん。 そこをつかれては、もう 降参するしかない。
私は母の言うとおり、子猫を捨てた。
「 ミャーミャー 」 ・・・と、その鳴声に背を向けたのである。

ところが
何日か経って。
「 海に猫が死んでる 」
・・・と、そんな声が聞こえた。
悪い予感がした。
そして、走った。
海を覗いた。
やっぱり、浮んでいたのは、
私が捨てた子猫だったのである。
・・・・
「 可哀想なことをした 」



「 拾わにゃあ よかったのに 」
・・・そう、想った。
ミャア ミャア 鳴く 子猫を見て、不憫と想い つい抱上げたのがいけなかったのだ。
惨い様だが、関わるべからず ・・・だったのだ。
然し、放っておくことなぞ、出来るものか。

なんとも、切ない話である

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大地蔵 ・ 峠越えて

2021年03月03日 04時51分57秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

銀輪部隊・罷り通る
「 ひかれるでー、端によっちょり !!
道端にいた私に 大人達が大きな声で そう叫んだ。
自転車に乗った一団が、オカノ店の前を通過してこっちへ向って来る。
それはもう、猛スピードで私の前を通過したのである。
そして、風を切って通り過ぎて行く彼等の背を、私は目で追いかけたのである。
「 あぶないのー 」
大地蔵から 蒲刈中学校へ通学する中学生達、
遠路 峠を越えて、自転車に乗ってやって来たのである。

 昭和54年6月 ・祖父母の家前から撮影
斯の物語 ( 昭和37年 (1962年) 迄 ) に登場する幹線道路。
銀輪部隊は斯の路を駆け抜けたのだ。
住吉浜から大地蔵への 山路 を、田圃を越えた辺りに、
おなご水・・・と、称されて、山の麓からの湧き水があった。
「 ここの水は飲めるんじゃ 」

・・・と、大きい人が教えて呉れた。
私等、小さき子供は 嬉しくなって、さも得意になって呑んだのである。

岬の櫓
三ノ瀬港から船に乗って地蔵に向かうと。
岬の先端にある松の木に、櫓が設けられているのが見れた。
「 あれ なんなあ ? 」
「 あれはのお、沖合のボラの群れを見つけるための 見張り小屋じゃあ 」
と、親父が そう教えて呉れた。
大地蔵では、昔から ボラの漁を行っていたのだ。
親父は 独特の臭いのあるボラを好んで食べたんだと。
然し私は、 「 こがな 臭い魚 くえん 」 と、鼻を摘まんだのであった。


峠越えて
5歳の頃だった。
大地蔵の庄屋家の 佐官の仕事を請けた親父。
住込みでの仕事になると言う。
吾々親子三人は、陸路 ・住吉浜から山路に入った。
大地蔵へのアクセスは、巡航船でも行けるが、
たいていはこの山路を通ったのだ。

♪ 昔々 その昔  椎の木 林のすぐそばに
    小さなお山が あったとさー あったとさ
    丸々坊主の禿山は  いつでもみんなの笑いもの
  「 これこれ  杉の子 起きなさい 」
    お日さま  にこにこ 声かけた 声かけた ♪

                                                          ・・・「 杉の子 」
母と手をつないで唄った。
「 お母ちゃん、禿山は どこにあるん ? 」
「 あの山が、禿山で 」
母は木の生えていない山を指さした。
ちゃんと 実存した山なのである。 ( が、それがどの辺りだったかの記憶はない )
「 お母ちゃん、早よ 大きいなりんさい 云うて、おひさん 肥え かけたんじゃな 」
肥え かけたんじゃのうて、声 かけたんで 」
親子三人で、こうして歩くのも久し振りのことであった。
私は嬉しくって堪らない。
だから、元気溌剌 山路を上ったのである。
もうそろそろ 峠。
・・・・「 カラスヘビはなぁ、空を飛ぶんじゃ 」
「 大地蔵の峠で、追っかけられてなぁ・・ワシの後ろから飛んで来るんじゃ 」
「 パッと軀をよけたんで助かったが、危なかったんで 」
「 噛まれちょったら、死んじょる 」
親父が襲われた 伝説のカラスヘビの存ると謂う 峠。
「 カラスヘビ・・恐ろしいヘビがおるもんじゃ 」・・・・と、ずっと想ってきたのである。

その峠にさしかかった。  私は、緊張した。
何事も起ころう筈もなかろうに。
何か事 ・・・あったけど、今回は語るまい。 私の懐にしまっておく )
吾々親子は峠を越えて、
大地蔵の庄屋へと 山路を下って行ったのである。
妹の存在に記憶が及ばない・・・妹は何処にいたのであろう。

庄屋家の納屋が寝床だった。
便所の窓から 坂道を上って行くお爺さんの姿が見える。
外へ出ると、
庄屋のおじいさんが焚火をしている。
冬だというのに、寝巻き姿に 素足で下駄履きの私。
暖をとろうと 火に近づき手を出した。
「 竹を燃しょうる 」
・・・と、そう想った瞬間、
パーン ・・と 響く音
案の定 竹が破裂したのだ。
咄嗟に、焚火に背を向け 逃げんと走った。 体が勝手に反応したのである。
走らんとして、爪先を踏んだ。
当然のこと、カカトが浮く。
そこへ、火の粉が飛んできた。
こともあらうに、足の裏と下駄との間に落ちたのである。
「 アーチッチ 」
人生わずか5年、こんなことも起る。

土踏まずで、火の粉を踏んでどうする。
足の裏ゆえか、火傷は なかなか治らなかった。
蒲刈病院へ行くと。
医者の先生、水脹れした皮をハサミで切ると、赤チンをつけた。
赤チン、それはもう、傷に沁みた。 然し男の児、それでも辛抱したのである。
続いて、足に包帯を巻いた。
私は、包帯を巻いて欲しかったのである。  男の児にとって包帯は勲章のようなもの。
「 してやったり 」 ・・・願い適って 得意顔の私。
名誉の負傷 でも、あるまいに。

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野球少年 ・ チャンバラから野球へ

2021年02月28日 06時46分56秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

 類似イメージ
昭和36年 ( 1961年 ) 頃
住吉浜の山麓には田圃があった。
稲刈が終ると、俟ちかねたように、吾々は そこで野球をしたのである。
革製のまともなグローブなぞ、誰が持っているものか。

蒲刈中学校で野球の試合
昭和37年 ( 1962年 )
地区対抗でソフトボールの試合が行われた。
それは、いつもの三角ベースではなく 9人制のチャントシタもの、
蒲刈中学校の運動場で行われた。
然し、誰もmyグローブ、myバット・・そんなもの持っちゃあいない。
使用する野球用具は総て用意されたもの、
だから、私のグローブは手に余った。
そして
誰が如何 仕切ったかは、解らない。
何故かしらん、
私はピッチャーであった。

最年少 ( 小学二年生 ) の私、いつもは外野の外野、
偶に守らせて貰っても、ライト・・が定位置だった。
ピッチャーの経験なぞ、
一度もなかったのである。


痛かったのに・・・・
「 エッ !? 」

打者の打ち返した球がライナーで真向から飛んでくる

低い小フライならグローブ捌きは手のひらを上に向けて掬って捕れるのに

フライなら手を伸ばして顔の前でグローブを立てて捕球もできるけれど・・・

投球直後の屈んだ私の顔面に向かって、打球が真ッ直ぐ飛んで来る

上向きにしやうか、立てやうか・・上向きにしやうか、立てやうか・・

如何すりゃいいのさ、思案橋

球は、スローモーション映像で見るかの様に、見る見る間に大きく成ってくる

そして、ソフトボールがドッチボールに為った時、私の目から星が出た

グローブ捌きもクソもあるものか

私は為すすべも無く、まともに顔面で球を受けたのである

此れまさに、漫画の様な一場面

ガハハハ・・

敵も味方も、見ている者、皆がこぞって、それはもう大笑い

カッコウ悪いったら、ありゃしない

今度は、顔から火が出た

人の気も知らんで・・・

 類似イメージ
昭和34年 ( 1959年 )、
5歳の私は10歳年長の叔父のラケットを持って素振りの真似をした。
中学の部活と謂えば卓球が定番だった。
昭和36年 ( 1961年 ) になると、
「 テニス 」 や 「 バレーボール 」 等の、カタカナで称する新しいものが現れた。
『 テニス 』 と謂う 言葉の響きに、
7歳の私は、なにかしらんスマートな感じを抱いたのである。
( 6歳年長の叔父はバレーボール部 だった )
   類似イメージ
我々、子供の遊びも変わった。
いつのまにやら
定番の 「 すもう 」 や 「 チャンバラ 」 を、しなくなったのだ。
時代は、「 映画 」 「 ラジオ 」 の 時代から、 「 テレビ 」 の 時代に進化して行く

そしてそれは
、『 野球 』 なる新しい遊びを、登場させたのである。

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タコ捕りの達人

2021年02月27日 05時13分19秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

道端にタコの天日干し
斯の光景
昭和35年 ( 1960年 ) の頃
当り前の如く見ていた。

 
イメージ

丸谷の波止場を中核として、私が海で経験したことを記す

夏の夕暮
引き潮から満ち潮に替わる頃合いに
親父と二人、舟に乗った。
タコを捕る
浜は水に浸かったばかりで浅い
櫓は漕げないのである。
だから、竹竿でもって舟を押す
タコ捕りでは決って
丸谷の波止場から天神鼻にかけて周遊したのである。

父はタコ捕りの達人
舟は、ゆっくり巡って、
天神鼻の中附近まで来た。
「 オッ、おるおる 」
「 エッ、どこなあ 」
「 ホレッ、そこにおろうが 」
親父に指差されても、私には見えなかった。
「 みちょれよー 」
・・・と、親父が竹竿の先で以て何かを突ついている。
私は目を凝らして、水中の竿の先を覗いた。
次の瞬間
竹竿の先にタコが巻き付いている。
そして
サッと、素早くタコを上げた。
舟底を這うタコ
タコの頭を手で掴んで舟底に叩きつけると、タコの動きが止まった。
「 こうしておかんと、たこが逃げるんじゃ 」

 イメージ

親父の講釈を聴く

タコの居る穴を見つけたら、
竿の先でチョンチョンと突つくんじゃ。
そしたら、タコが顔を出す。
そこで、捕ろうとしたら駄目なんじゃ。
竹竿を顔先に向けたら、勝手に足を絡めてくる。
そこで、サッと上げるんじゃ。
のもんは、それが分らんのじゃ。
・・・此が、タコ捕りのノウハウ と、講釈をタレタ。

是、まさしく職人技
誰しもが出来るものでは無い。
・・・と、そう言いたかったのである。

結局、此の日は
タコ三匹
簡単なものである。
早速 湯がいて
刺し身にしてたべたのである。
「 うまいのお 」
・・・と
その味を堪能したのである。

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弁財天神社

2021年02月25日 05時53分40秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

   
丸谷の
弁財天神社
その名前を2016年
グーグルマップを見て知った。
幼い頃に上った階段、その位置は変っちゃあいない。
当時、鳥居が有ったか否かは覚えていないが

此の道を、この階段を
意気軒昂、闊歩したことは、忘れないのである。

オミヤサン
・・と 謂って皆で遊んだ処で

四歳の頃のテリトリーである。
 イメージ

階段を登ると広場になっていて、山桜の木が在った。
春は
山桜の木に登って

黒く熟れたサクランボを採って食べた。

 ニイニイゼミ  クマゼミ

夏は

蝉捕り
此処にはニイニイ蝉がいた。
この蝉、見かけも悪く、鳴く声も地味で
如何にも弱々しい
動きも鈍く
山桜の木に登り、手掴みで捕れたのである。
だから、少しもの足らず、私は好きではなかった。
男の児としてはやはり、勇ましいクマゼミの方がよかったのだ。
然し
クマゼミと出遭うは偶で
せっかく見つけても、動きは早く
幼い子供が手掴みで捕れる筈もなかったのである。
 梅の実 ・イメージ
山桜のある広場から
階段を上ると 御宮の御堂があった。

御堂の横に更に上る階段があり、そこに梅の木があった。
美味そうな実が成っている。
「 青い梅 食うたら腹が痛くなるぞ 」
先輩達がそう教えて呉れる。
梅干しはひとつ丸ごと口にするほど 大好物な私。
梅酒に漬けた梅を ガリガリ 齧って食べるのが大好きな私。
先輩達の声を聞かずに、捥いで齧った。

 
御宮の階段を上りきると、
雑木林になる。
秋に

6歳上の叔父と二人、そこに入って 栗を拾った。
毬栗 ・イガグリ は 触ると ビックリするほど痛かった。
『 二階 』 の家に持ち帰って、
母に蒸かしてもらって食べた味は格別であった。

芋 より ずっと美味い・・・そう、想った。

御宮の広場の突き当りは崖

其処から三ノ瀬の街並みが見えた。
崖下には、石炭の燃えカスが積まれたボタ山があった。
この燃えカスの石炭でも、ちゃんと炭の代りになったのである。

どうして此処にボタ山があったかは知らない。


フラフープが流行った 昭和33年 ( 1958年 )

四歳の私
竹製のワッパでフラフープ
流行の真似事をしたものである

ススキをカヤと呼ぶ
御宮の階段脇に生えていたカヤを摘み取り
指先でカヤを飛ばして遊んだ

此を 「カヤの葉飛ばし」・・と、謂う
階段の頂きに立ち
たかが四歳の私が飛ばして見せたは
もう、遥か彼方の・・・こと

今となっては
カヤの葉
飛ばすこと かなわない

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小ミカン畑

2021年02月24日 06時26分15秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

小遣い など、ろくに貰えなかった時代
吾々は、野山での、遊びの中で以て
先輩達から
作っているもの以外で、自然に成っていて
「食べれるもの」 を
そして
「 食べらるものがどこにあるのか 」 を、伝授された
皆は、畑で働く親たちの苦労を肌で感じて、知っている
だから
「泥棒はしない」

     
やまもも                 やまなし              やまぶどう      ざくろ
       
いちぢく                 あけび                  秋ぐみ
            ・
とうかき                 ふゆうかき                 きんかん
    
いたんぼ      のいちご                             びわ                さくらんぼ  
どれも 採ってその場で食べたもの ( 畑の作物は除く )

回虫の話し
夜中
咽喉がむずむずする。
気持が悪くなって目が覚めた。
「 気分が悪い 」
母が洗面器を用意して呉れた。
そして
嗚咽すると、洗面器の中でなにやら動くものを認めた。
「虫じゃ、虫がでた」・・と、母、
20cm程の、白い虫であった。

「 山でイタンボ 取っちゃあ、喰ようるからじゃ 」
山で食べれるものを見つければ、その場で口に運んだ。
是、何も私だけのことでは無い、皆がそうしていたのである。

虫下し
なにやら 乾燥させた根っこを煎じて呑まされた。
それはもう、苦いわ 臭いは
普通なら、とても飲めたものではないが、
虫の姿を見たからには、もう、呑むしかない。
カンネンして、鼻を摘んで呑んだのである。

よくもまぁ
口から
回虫が出てくる程
腹ん中に湧かせたもんである。
今の時代では、想像もつくまい
・・が


小みかん畑

昭和34年(1959年
) 冬の丸谷
山口の家と松本の店の間に山路があって、
其処を
上って行くと、右手に杉の大木があった。
夏になると、島で唯一 アブラゼミの姿が見れる大木である。
その杉から も う少しだけ上ると めざす小ミカンの畑があった。
収穫が済むと、子供の吾々は収穫洩れの残りミカンを探して ミカンの木に登った。
それは、大人達も認めていて、咎められることはなかったのである。

木に登ったままミカンを取る
今年も亦、
小ミカンの収穫が終わった。
もう 憚ることはない。
「 イザ 行かん 」
中学生の 頭 かしら が先頭となって近所の子倅を引き連れて上る。
5歳の私はその尻尾についた。
胸は涌く涌く、それはもう・・踊るような気分である。
小ミカン畑に着くと。
「 ワシ は、この木、ワレ は、その木 」  「 その木は危ないきん 誰々はアッチ 」 と、頭が仕切る。
そして、吾々 小伜
仕切りが終るのを待ちきれんとばかりに、
「 ソレッ!」
・・・と、一斉に木に登ったのである。

小ミカンの木
枝が多くて登り易かった。
だから、隣の木に枝伝いに移動も容易く出来るのだ。
「 自分等の為に わざわざ残して呉れたのか 」
・・・と想うほど、
あっちこっちに実が残っている。
もいだ小ミカンはジャンパーの ポケットへ入れた。
ジャンバーの両ポケットの中は既にくり抜いてあり、ミカンをポケットに入れると、
くり抜いた穴から、
服の背中へと詰め込まれていく仕掛けである。
「 ハハン 」
吾々は もう、夢中でもぎ取った。

みかん取りが終った。
皆の腰の回りが膨らんでいる。
「 薪を拾え 」
・・・と、頭
皆で、薪を拾い集めて駆け下りた。
これから、丸谷の波止場へ行き、焚火をしながら暖を取るのだ。
そして、採った小ミカンを頬張りながら、
如何に、己のジャンパーの
膨らみが大きい事を、自慢しあうのだ。
誰もが、ウキウキ そんな気分で波止場へ小走ったのである。

・・・と、此処まではいつものこと。
ところがこの日は、そうはゆかなかったのである。

どんでん返し
私の前 さき の方を行く、4歳上のヒロ君
彼は 薪を後しろ背に両手で抱えながら、波止場の狭い路を小走っていた。
そして、波止場路の途中まで進んだその時、
魔がさしたか、薪の先が右壁に触れてバランスを崩したのだ。
「 アッ ! ! 」 ・・・私は、そう心で叫んだ。
こともあろうに 勢い 海に落ちて仕舞ったのだ。
海は水が退いていた。
だから、底までは3m~4mはある。
然も、干上がった海底には基礎岩が露出している。
とうてい、怪我だけでは済まないだらう。
そんな落ちてはならぬ所へ落ちたのだ。
当のヒロ君、
声も出なかった。
が 然し、この時 岩の頭が覗く程度に水があった。
そして、偶々
岩と岩の隙間、僅かであるが それでも水の中へ落ちたのである。
 イメージ
落下のシーン 今も尚、瞼に焼きついている。
然し そのディティールは語るまい

皆が心配そうに見守っている中、
落ちた
ヒロ君、
起き上がると サッサと階段から波止路へ上がって来た。
なんと、
かすり傷一つなかったのだ。
これはもう、奇跡としか謂いようがない。
皆がどれだけ安堵したことか。
「 えかったのー 」 ・・・殊に頭が喜んだ。
さもあらん。

しんがりに居て、その瞬間を目撃した私、
一部始終の証人である。

海へ落ちる

ヒロ君
どんな想いを懐いたのであらうか

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総理大臣が軍艦に乗ってやって来た

2021年02月23日 19時53分12秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年


池田勇人・総理大臣
広島県竹原市出身
吾郷土から生まれた総理大臣である

  類似イメージ
総理大臣が
軍艦に乗ってやって来た

昭和35年 ( 1960年 )
池田総理大臣が誕生した。

そして
なんと
こともあらうに
日本国の総理大臣が吾が島を訪れたのである。
小さい島は、もう てんやわんやの大騒動。
日本国の総理大臣を一目拝もうと、人人人でごった返した。
私もその群れの中に居たのである。
6歳の少年には、どの御方が 総理大臣 かは判らない。
『 総理大臣 』 ・・・すら、分らないのであるから。
「 村長は 池田総理大臣の子分じゃきん、島へ来て呉れたんじゃろ 」
周りの大人達は総理大臣閣下の姿に接し、それはもう大感激している。
然し 皆の興奮をよそに、
少年の私は
初めて見る雄々しい艦船に感動し興奮していた。
「 大砲が付いちょるど、ありゃ軍艦じゃあ、軍艦じゃあ 」
大人を感嘆せしめるほどに巧く戦艦大和を描いた少年の私は、軍艦に並々ならぬ関心を懐いていた。
そんな想いから、機関砲を装備した海上保安庁の船が軍艦に見えたのである。
桟橋に立った総理大臣。
ラウンドスピーカーを持ち挨拶すれば、それはもう ヤンヤヤンヤの大喝采。
全島民は、もう 興奮のる坩堝と化したのである。

「 貧乏人は麦を食へ 」 と、言った大蔵大臣・池田勇人
『 所得倍増計画 』 を、打ち出し、それを僅か7年で達成させた総理大臣・池田勇人。
なんとスケールのでかい為人である。
然し、少年の私にとっては、
なんといっても、
軍艦に乗ってやって来た総理大臣
それはそれは、偉い人
・・と、そう想ったのである。

「 私は嘘は申しません 」

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飛地 大久保

2021年02月22日 05時56分21秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年


私の故郷である。
海も島も昔の侭 ちゃんとそこにある。
然し、想い出の中に出て来る吾故郷は残ってはいない。
此処には、曾て私が存した空間は もはや存在しないのである。

「 故郷は遠きにありて想うもの 」
私にとって、
『 遠きにありて 』
・・・とは、過ぎ去った時を謂う。
然しそれでも、
過ぎ去った時は、瞼をとじさえすればいつでも
其処にある。
そして、想い出は鮮やかに蘇えるのである。

瞼に焼きついた吾故郷と、湧き水の如くあふれる想い出は、
永劫に、無くなりはしないのである。

・・・リンク→故郷は遠きにありて想うもの
 
昭和37年 ( 1962年 )


大久保へ舟に乗って向かう

昭和34年 ( 1959年 )
大久保に祖父母の畑があって、そこで芋を作っていた。
芋を収穫する秋 とき が来た。
今日は、その芋を採りに皆して出かけるのだ。
その中に私も混じっていた。
「 ワシ も行く 」・・・皆に附いて行くだけである。
5歳の私、何の役にも立つものか。
大久保は陸上からは畑に通ずる道も無い飛地の遠隔地、アクセス手段は舟だけであった。
そして、舟は積んだ荷を運ぶ唯一の手段であった。
車の無かった時代のこと、運搬は専ら舟だったのである。 
もちろん、舟は櫓を漕ぐ木舟で、普段は、丸谷の波止場に碇泊していた。
櫓を漕いだは、10歳年長の叔父。
もちろん 6歳年長の叔父も櫓は漕げる。
私は・・・・試してみたものの、
力不足、とうてい櫓を漕げなかったのである。
5歳では、さもあらん。
朝早く、丸谷の波止場を出港した。
青空の下、海は いつもの如く 穏やかである。
天神鼻までの丸谷の沖合は潮の流れを感じない。櫓を漕ぐ叔父の顔も爽やかである。
それでも、天神鼻の先に来ると、少し波立って来るのである。
岬の先は、その姿までは見ることはできないが、
浸食された嘗ての岬が岩礁として残って浅瀬になっているからである。
丸谷の波止場から眺めると けっこう沖合である。
  平成の頃
天神鼻を過ぎて見戸代の沖合に出る。
さりとて、まだまだ内海、亦、見慣れた風景と穏やかな海が続くのである。
「 海の青色は、空の青を映しちょるんじゃ 」
6歳年長の叔父が、空を指さし乍ら そう言った。
私は空を見上げて、
「 カナアンチャンは偉いんじゃ 」
叔父の博識に感心したのである。
10歳年長の叔父の爽やかな顔も変わらない。
  1979年 
さて、見戸代の岬を超えるとそこは外海、海は大きくなるのである。
これまで穏やかだった海は、愈々 その様相を一変させた。
なんと、海が飛沫をあげて波立っているではないか。
立つ波がザワザワして、それが如何にも潮の流れの速さを感じさせる

その姿、私は怖ろしかった。
「 一時も早く この難所を通過しなければ 」
10歳年長の叔父の顔もキッと引締り、櫓を漕ぐ手に力が入る。
6歳年長の叔父も加わって二人で櫓を漕いだ。
5歳の私、何の役にも立つものか。

   類似イメージ
「 やれやれじゃ 」
緊張の難所を過ぎると一段落、海は穏やかになってくる。
漕ぎ手も 10歳年長の叔父一人に戻った。
叔父の顔から緊張がほぐれていた。
どれほど時間が かかったのであろうか。
砂利浜に舟を寄せると そこが大久保であった。
私は初めて見る景色に、なにやら別の島に着いたような気がしたのである。
さもあらん。
砂利浜を上ってゆくと、浜昼顔の花が咲いていた。
  類似イメージ
続きは、亦の機会としやう。


映画・裸の島
昭和35年 ( 1960年 ) の斯の映画。
2013年に偶々 テレビで出遭って感動した私。
『 活きてゆく とは、こういうものか 』
・・・そう想った。

 

昭和35年 ( 1960年 ) 頃、
親は必死に働いていた。
我が子にひもじい思いをさせまいと必死だったのだ。
そんな親の姿を見て子も亦、 家の用事をして、親の手伝いをしたのである。
『 家の用事をして、親の手伝いをするのが子の努め 』
それが 当たり前のことだったのだ。
私は、そんな時代を観ていたのである。

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海峡を越えて

2021年02月19日 21時32分37秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

瀬戸は日暮れて 夕波小波
  あなたの島へ お嫁にゆくの

若いと誰もが 心配するけれど
  愛があるから 大丈夫なの

段々畑と さよならするのよ
  幼い弟 行くなと泣いた

男だったら 泣いたりせずに
  父さん母さん 大事にしてね

・・・「 瀬戸の花嫁 」
小柳ルミ子  昭和47年 ( 1972年 )

海峡こえて
私の母は 昭和28年(1953年)
海峡を舟で越えて 父の許へ嫁いでいった。
「瀬戸の花嫁」 ・・である。


「 戦艦大和はここを通れんくらい大きかったんじゃ 」
大人達にそう聞かされて、感心した私、
益々 『 戦艦大和 』 に ロマンを感じていった。

海峡の最も狭い処 ( 並止の先端から、向こう岸・三ノ瀬小学校まで ) の距離は≒220m 
戦艦大和は全長263m
「 さもあらん 」 ・・・そう、想った。 
・・・リンク→三つ子の魂百までも

満潮の海水は、これから干潮に換る。
これから流れが速く成る。
波止場の先端傍には、いつも渦が巻いた。 海峡で最も潮の流れが急であった。
「 落ちたら死ぬ 」
・・・と、そう胆に銘じた。
流れが速い為か、海峡を泳いで渡った人・・・私は知らない

・・・昭和44年 ( 1969年 ) 10月14日  上蒲刈町向  祖母 ( 母方 ) の家から撮影  

海峡こえて

私の祖母は、いつもこの景色を眺めていた。
「 はなだゆきのりくん 」
・・・と、先生が呼ぶ声
時折、風に乗って、聞えて来る。
それが愉しみだった。 ・・・そうである。
そして、
足の不自由だった祖母は、
一人窓辺に 坐って、
見える筈も無い私の姿を見つめていたのである。

  昭和37年 (1962年)
私8歳  妹1歳  従姉 ( 3歳上 ) 
「 しのぶ 画用紙買うて来い 」
偉そうに私がそう言っても、
文句一つ言わずに買って来て呉れる優しい姉だった。

海峡越えて
週末を母の実家で過ごす

日出子先生
半ドンの土曜日。
この日は週末を母の実家で過ごすことになっていた。
だから、母が授業の終りを見計って 迎えにくることになっていたのである。
4時間目は図画工作の時間で、吾々は粘土細工をしていた。
油粘土をコネて定番のヘビを作る者、丸めてダンゴにする者、舟を作ったり・・・・
私は、馬を拵えていた。
それは楽しい時間であった。  そろそろ時間も終りかけた頃。
教室の後ろに居た 日出子先生 に出来上がった馬を持って行くと、
もう一人、馬を拵えた者がいて、見ると 上手に出来ているではないか。
負けず嫌いの私
「 うまく 作っちょるが、ワシの方が力強い 」
そう、心で呟いた。
でも、やっぱりそれは 『 負惜しみ 』 と謂うもの。 
・・・と、分かっていた。
ところが、
日出子先生、
私の拵えた馬を高々と持上げて、
「 ユキノリクンはこんなに上手に ( 馬を ) 作りました 」
 ・・と、言って、皆に見せたのである。
私は、こそばゆかった。
・・・でも、
「 なんか おかしい ? 」
・・・子供心にそう感じた。
振り向くと、
教室に顔を覗かせた 母の顔があったのである。
母が喜んだは謂うまでもない。
「 先生は 『 オベス 』 かいたんたんじゃ 」   ( ・・・大きい声では言えない )
・・・リンク→日出子先生


 類似イメージ
渡海舟
客を乗せる舟は もっと大きい

三ノ瀬~向の海峡を、二隻の櫓を漕ぐ木舟が交互に渡った

船頭は 「 マサニー 」 と 「ヤーニー 」 ・・・皆にそう呼ばれていた
昭和44年10月14日撮影
渡海 ( トカイ )
吾々は そう呼んだ。
吉川の船着き場から向港の桟橋まで、渡海舟に乗って海峡を越える。
渡海舟には、大勢の人 ( 客 ) が乗った。
そして、船頭一人で、「 ギッチラ・・コ  ギッチラ・・コ 」 と 櫓を漕いだのである。
普段は穏やかな海であるが、なんといっても瀬戸、潮の流れはやっぱり速い。
船頭さん、そんな中を ちゃんと 潮の足 を考慮して大きく迂回しながら巧みに進んで行く。
舟が進むにつれて 海面 みなも の表情が変わってゆく。
さざ波が立ったり、渦が巻いたり、べた凪に変わったり、・・・
殊に色 が変る。更に濃くなったり、薄くなったり・・・
「 この海の底には、何がおるんじゃろ 」
曇り空の下での深い藍色は なんとも不気味で恐ろしかった。
「 此処で落ちたら、足を引っ張られる 」・・・緊張して眺めていたのである。
どのくらい時間がかかっただらうか。 向の港に近づいた頃、
実家近くの海岸道路の排水孔から、海に向かって顔を出している従姉 ( 1歳上 ) の姿が見えた。
完成したばかりの海岸道路、排水管に未だ水は流れていない。
その排水孔をトンネル代わりにして遊んでいるのだ。
「 ( 危ない遊びをして ) オハチなんじゃきん、水が来たらどうするんじゃ 」
母は 心配の面持ちで、そう呟いた。

 
映画版 ・黄金孔雀城             母の実家で見た ・白馬童子
「 黄門孔雀城 じゃ 」
昭和35年 (1960年) 頃、NHKラジオで放送されていた 『 黄金孔雀城 』
私は此を聴いていた。否、私に限らず 誰も皆 この放送を聴いていたのである。
私が、そのタイトル 番組名を 「 黄門孔雀城 」 と云ったところから、話が弾んだ。
母の実家の義理の伯母さん ( 母の兄の妻・・・皆から 『 姐さん 』 と、呼ばれていた ) が、
「 うううん、黄金孔雀城 じゃろ 」 ・・・と、糺した。
姐さん、いつものように ニコニコ顔である。
負けず嫌いの私、
「 うんにゃ、絶対 黄門孔雀城 じゃあ 」
・・と、譲らなかった。
それでも、姐さん
「 黄金孔雀城 じゃ 」
と、一歩もひかない。 さりとて、ニコニコ顔も変わらない。
業を煮やして私、
「 ほんなら、ラジオ 聴いてみない !! 」
この問答に、周りの皆は大爆笑したのである。

従姉妹と従兄弟
3歳上の従姉が祖母から字を習っている。
習字しているのだ。
新聞紙を半紙の代りに、筆をとって一生懸命書いていた。
「 大きなったら こんな勉強をするんじゃ 」 
3歳上の従姉の真剣な表情から、
なにかしらん大人を見たような気がしたのである。
 類似イメージ
月刊誌少年画報、『 0戦太郎 』
私は購読していて、
こういったシーンを描いていたのである
南向きの縁側に明るい日射しがそそぐ。
従姉に買うてきてもらった画用紙を廊下に拡げ、ゼロ戦を描いていた。
戦艦大和 や、零戦は 幼い頃から関心のまとだったのである。
続いて、ゼロ戦が敵戦闘機に機銃掃射しているシーンを描き始めた。
私の横では、1歳下の従弟が 四つん這いの姿でそれを覗きこんでいる。
「 巧いじゃろうが 」 ・・・私が 自慢すると。
「 巧いもんじゃのー 」 ・・・感心して、そう応えたのである。
私は得意になって 続けた。 もう、天狗の鼻。
そこへ、4歳上の従兄が現れた。
突っ立ったまま、
「 なんな それ、ション便みたいじゃのー 」
そう言って、冷やかしたのだ。
すると どうだらう、
さっき迄 感心して見ていた従弟が 手のひらを反した。
「 ほんまに、ション便 みたいじゃ 」
そう言って、従兄に付いたのである。
「 こんな、なんなー 」  ( 大阪弁なら ・・・こ いつ なんや )
4歳上の従兄に自慢の鼻を折られ、1歳下の従弟には裏切られ
もう、メンツ丸つぶれ。
頭に来た私、
「 ション便じゃないわい。 機関銃の弾じゃ 、これが判らんのか 」
・・・そう、声を張り上げたのである。

海峡越えて
日はトップリ 暮れている。
これから、海峡越えて丸谷に帰る。
向港の桟橋で小型の巡航船 ・ユーコ を待っていた。
デイーゼルエンジンの客船である。 暗くなって もはや 渡海舟には乗れない。
妹はネンネコの中 母の背中で眠っている。
往きは楽しいけれど、復りは寂しいもの。  感傷的な気分にもなろうというものである。
桟橋傍に一本の電灯があった。
その薄明かりの灯 ともしび が いかにも哀愁を感じさせるのであった。
桟橋に佇むは、吾々親子三人だけである。
・・・・
無言の中
「 ウフフッ 」
と、何やら可愛い声がする。
振り向くと、電灯の脚下 あしもと に小さな人影。
柱の蔭から、同い年くらいの、三つ編みでお下げの少女が覗いている。
「 誰じゃろう ? 」
私が振り向くと、陰に隠れる。
柱の左から右から顔を出したり 引っ込めたりしている。
そんな、お茶目なしぐさを、私は可愛いと思った。

『 一期一会の少女 』
私の生涯で斯のシーンのみに登場した少女、
少年の心に淡い想いを抱かせて退場したのである。


蒲刈大橋
撮影
 昭和54年 (1979年) 6月19日
海峡を越えて
昭和 54年 ( 1979年 ) 蒲刈大橋が海峡を跨いだ。
もう、渡海舟で海峡を越えることはない。

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丸谷の波止場 と 「 夕焼けとんび 」

2021年02月16日 06時17分05秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

    昭和29年 ( 1954年 ) 親父
丸谷の波止場
波止場には

拡声機 ( トランペツト式スピーカー ) が有った。
スピーカーから流れていたのは
三橋美智也の 「夕焼けとんび」  昭和33年
一 
夕焼け空が まっかっか

とんびがくるりと 輪をかいた
ホーイのホイ
そこから東京が 見えるかい
見えたらここまで 降りて来な
火傷をせぬうち
早ッコヨ  ホーイホイ

上りの汽車が ピーポッポ

とんびもつられて 笛吹いた
ホーイのホイ
兄ちゃんはどうして いるんだい
ちょっぴり教えて くんないか
油揚一丁 進上ヨ   ホーイホイ

一番星が チーカチカ

とんびはいじ悪 しらぬ顔
ホーイホイ
祭りにゃ 必ず帰るって
おいらをだまして 置いてった
兄ちゃも お前も
馬鹿っちヨ  ホーイホイ
私はこの歌、波止場で覚えたのである。
波止場のスピーカーから流れしは、
それこそまさに 『 時 』 であった。
・・・と、そう想う。
  昭和33年 ( 1958年 ) 母 妹
昭和33年 ここで
両親と三人で釣りをした

私が、カニを釣上げた  

 マッコ ・・隣の兄さん
遙かなる日
時は 斯くも ゆっくりと流れていた。
写真に映し出された人や風景、
況や画像そのもの・・も、

れも、ゆったり と、したものを感じる。
↓ 道路に沿って海側にある白線は、干潮時の床 のライン
画面左端の広がった部分から砂浜になってゆく    この辺りは ゴカイが多く捕れた

昭和44年(1969年) 中学3年の秋
クラスの男子生徒で、誰が一番高く、ボール(軟式球)を真上に投げるかを競ったことがある
自信のある奴が、我こそはと、放り投げる
しかし、どれも、放物線を描いて、遥か前方に落下するのである
真上に上がらない
球筋も観ていていかにも弱々しく、急速に落下する
「なんやおまえら、高く あがらんやんけ」
だれも皆、真上に投げられないのだ
そして、真打登場とばかり、私が投げて見せる
「オー !」
私の投げたボールは、勢い良く真上に上った、放物線など描かない
皆が真下から見上げている
ボールは、一直線に空高く舞上がり、なかなか落ちてこないのである
そして投げた位置の真後ろ1メートルに落下した
「ドヤッ !」 と、得意顔の私
絶頂の瞬間(とき)である
・・・リンク→腕自慢でも敵わなかった万博の大屋根
昭和36年 ( 1961年 ) 小学一年の時、
松本店前の道端から波止場に向かって石を投げた。
投げた石が波止場を越えて行く。
7歳からしたら、40メートルの将に大遠投である。
『 誰よりも遠くに石を投げる 』
これを男のロマンとしたる そのルーツは、
ここ丸谷の波止場にあったのである。

因みに
石を海に向かって投げる・・・こと
覚えたのは住吉の浜 ( 三ノ瀬小学校 の更に向こう ) でのこと、
見様見真似で平らな石を拾って水面を滑らせて投げた。
これが始まりである。


昭和36年 ( 1961年 )
道路と波止場の分岐点

私が坐っているコンクリート護岸の先端に
貞子さん ( ていさん ) は坐っていた。
・・・リンク→貞子さん(ていさん)


あんぱん を食う私
昭和36年 ( 1961年 ) 3月 6歳
卒園の日 ( 弘願時・・村の寺、保育所 )
年長の梅組の室から
卒園式を行う本堂に移ると、各自の記念品・証書が置かれてあった。
祝い品として、紅白まんじゅう 為らず あんぱん が配られた。
私は、皆より少し遅れて本堂へ入室した。
すると
私の(座る)場所には、記念品の あんぱん が、ない。
・・
「 ゆきくん 」
「 ん 」
「 わしの、食うてもええよ 」
と、松崎親男君が云う。
「 まちごうて、ゆきくん のを、食うたんじゃきん 」
・・・
その アンパンを食べているのである

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吾母との絆の証し

2021年02月15日 06時27分19秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

 父・21歳  母・19歳
金襴緞子の 帯締めながら

花嫁御寮は なぜ泣くのだろう
文金島田に 髪結いながら
花嫁御寮は なぜ泣くのだろう
祖父母の家の隣接して祖父の姉の家があった。
昭和28年 ( 1953年 ) 結婚した吾両親、結婚を機にその二階に所帯を構えた。
『 昭和・私の記憶 』 ・・・茲から始まるのである。

『 2階 』 の見取り図
祖父母の家の庭が アプローチ、
湯屋と母屋との間の通路から2階へアクセスする。
通路には屋根が掛っていた。
通路の中、母屋の沿って焚き木が積まれてあった。
10歳年長の叔父が斧や鎌で割ったものである。
その焚き木をくべ、
竹筒の火吹きで息を吹きかけ、 風呂の水を沸かすのだ。
風呂焚き場で、火の番するは 10歳年長の叔父の役目である。
 類似イメージ  
                   火吹き                                五右衛門風呂
叔父が、風呂の水を沸かし以て 焼いた 『 焼き芋 』 は、黒焦げの まるで炭、
でも、これが たいそう美味かった。

  類似イメージ
2階建ての1階部分は 祖父母の農作業場 兼 物入で、
一度だけここで餅をついた。

反対側に乗って 足で踏む ・・・ てこの原理で以て杵を突くのだ。
さながら 江戸時代のものかと惟うほどの農工具の数々・・・しかし記憶にない

通路の奥、二階に上る階段横には 羊小屋があった。羊を飼っていたのである。
「 ここは、昔は岩風呂があったんじゃ 」・・・と、親父。
類似イメージ
毛を刈るバリカンが 地肌を咬む  可哀想に血がにじんでいる。
「 この、汚い毛・・・どうするんじゃろ 」
刈り取られた羊毛は 汚れたまま、農協の人が持って行った。
そして、暫くすると、着色された毛糸になって帰って来たのである。


この頃、電化といえば、記憶するは 電灯 と ラヂオ くらいである。
さもあらん
アルコールランプで室の灯りをとる家もあったのだから。


昭和35年 ( 1955年 ) の島に水道はない。
祖父母の家に於ける 『 水を汲む 』 という任務を、

六歳年長 ( 12歳 ) の叔父と十歳年長 ( 16歳 ) の叔父が担った。
 類似イメージ  類似イメージ
手動ポンプ式 井戸                                  天秤棒 と水桶

叔父達は 山麓の井戸で水を汲み、
せっせと、満杯ので重たい水桶を天秤棒にかついで運んだのだ。
そして、台所の水瓶、風呂の浴槽を満たしたのである。
是、たいした重労働だということ、水を汲んだことのない私には解らない。

階段を上ると、突当りは崖、崖の上は急傾斜の山。
急傾斜の山には、雑木に混じって、ヤシ ( ノコギリヤシ ) があった。
   「 風小僧 」
私はこれを手にして
さながら 『 天狗のウチワ 』 として振ってみた
そして、
「 俺らは風の子 風小僧  ひゅーひゅー ヒューヒュー 」
得意になって、唄ったのである

入口の引戸を左にスライドさせて土間に入る。
妻側は勝手口。
勝手口 ( 板戸の引戸 ) から外へ出ると竹藪の小径・・階段・・井戸端・・と続く。
吾母が、天秤棒で桶をかついで井戸水を汲みに行った小径である。
竹藪は、
山鳩の鳴く声が聞こえ、
春を過ぎると筍が伸び、つゆ草が咲いた。
     類似イメージ
竹藪                                      筍                                     つゆ草

井戸へ続く階段は、狭いうえにかなり険しかった。
松本の家が階段に沿って建っている。
階段を下りると 井戸端。
井戸端は、
ツワが群生し、ベンケイガニが這う、そして 苔が生していた。
排水溝のドブにはオオミミズ が 横たわり、
そんな中に地中5~6メートル程掘ったのであらうや、井戸があったのだ。
叔父達も水を汲む井戸である。 ( 彼等は道路から迂回して此処へ来た )
     類似イメージ
ツワ                                       ベンケイガニ                       オオミミズ

  類似イメージ
クド                                      しちりん

土間の山側に炊事の クド、しちりん、調理台、流司、水瓶が並ぶ。

土間を上がると、茶の間。
  「 映画・めし 」  類似イメージ
 茶の間  ちゃぶ台   電灯

『 アコウ 』 を、釣った時、この茶の間の天井に魚を入れたバケツを吊ったのだ。
・・・リンク→アコウを釣った

次の間が畳の部屋である。
そして、海に向かって引違いの窓があった。
私が生まれる以前、六歳年上の叔父が落ちた窓である。
窓を開けると、下に松本老夫婦の住まいが見えた。
1階 ・縁側に一人佇むおばあさんを見つけるや
「おばあちゃん」・・と、
声をかけたは いつの日か
頂いて食べた よもぎ餅 ・・・生涯の一品である。
類似イメージ
昭和35年 ( 1960年 ) 丸谷の我家に引っ越しの際、
おばあちゃん
大八車にラジオ一つ くくって運んで呉れた。
大八車と ラジオ一つ そのアンバランスの光景は、私の瞼に焼きついて消えない。
あの時、おばあちゃん・・・何歳だったのだろうか。


吾母との絆の証し
私の左手の甲いっぱい、アザがある。

66年経った今 ( 2021年 ) でも、それを確認できるのである。
 若い頃の母
「 水汲みは辛かった 」
後年母はそう述懐した。
たぶん、結婚するまでは
水汲みなど
したことがなかったのである。
所帯を構える・・とは、そういう事なのである。
 類似イメージ  吾母ではない
昭和28年 ( 1953年 )
身重の母は、竹薮の小径を通り 井戸まで水を汲みに行った。
竹藪の小径は湿気が多く、それ故に 地面はいつもジメジメしていたのである。
別に魔が差したという訳ではないが、階段で足を滑らせた。
そして こともあらうに、松本の家と 階段の隙間に転倒してしまったのだ。
「 そのアザは  たぶん腹に居ったその時に できたんかもしれん。
  生まれた時、真青に内出血しちょった 」
・・・と、母はそう語った。

昭和は遙遠く、元号は令和3年 ( 2021年 ) の而今
私の手は、張りがあり  まだまだ きれいである。
然し、私の手の甲のアザ
年齢 とし を重ねるごとに薄らいでゆく。
手の甲にアザが 残ろうが消えようが 吾母との絆が無くなるものではない。
とは雖も、やっぱり 哀しい
手の甲のアザ・・・は、母の大切な形見
そしてそれが、
血を分けた母との 絆の証し
吾母が実存した証し
・・・と、そう想うからである。

「 故郷は遠きにありて想うもの 」
私にとって、
『 遠きにありて 』
・・・とは、過ぎ去った時を謂う。

そして
『 故郷 』
・・・とは、母を謂う。

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アコウを釣った

2021年02月14日 21時06分43秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

「!」
「 ・・・・おとうちゃん 」
「 ん?」
「 ひっかかったぁ 」
「 かしてみい 」 
親父に てぐす を渡した。
「 オッ! 喰うちょるど 」
然も、手ごたえ十分の大物
たかが四歳
の私
とうてい釣り揚げられる魚ではなかったのである。
親父が 引揚げると 
それは アコウ であった。

その晩
アコウを入れたバケツを天井に吊るして、眠った。

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一晩 明けて
会うもん、合うもん、皆に
魚のアタリを

「 ガツン ゆうた !」
・・・云うて、そりゃあもう  ゆうわ  ゆうわ
ほいで
斯くして
アコウを釣った アコウを釣った
と そりゃあもう
天下を取ったみたいに
おおぐち たれる は たれる
・・・と、、後年
それは、
親父の語り草であった

アコウを入れたバケツを天井に吊るして、眠った  」
・・・この 行 ( くだり ) の光景、脳裡に焼きついている。
当時は 祖父母の2階に住いしていた。

日に照らされて もう 元気溌剌
天真爛漫は
周りの人を、思わず微笑ました

『 日 』 ・・・とは、両親や祖父母をはじめ親族のこと
『 照らされる 』 ・・・とは、愛情をいう

コメント

サトオッチャン

2021年02月12日 05時56分36秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

「 瞼に焼付いた吾故郷を確認しやう。
  そして、
積年の想いを遂げん 」
・・・と

昭和54年 (1979年) 6月19日 私は、一人帰郷した。
・・・リンク→故郷は遠きにありて想うもの
       ←見返し
幼年期頃の面影が、かろうじて残っていた。

( 5歳の頃 )
「 幸徳は、いっつも道路にへたりこんで、絵を描きょうた」
・・が、祖母の口癖であった。
ろう石 で いちめんに絵を描いたのである。
私が道にへたりこんで、道一杯に描いた絵
それは、これ

スーパージャイアンツ


家の向こうは海
右に丸谷の波止場に続く
映っていないが画面左が、祖父母の家
此処が、貞子さん(ていさん)の物語で、叔父と自転車で通り抜けた処である
・・・リンク→貞子さん(ていさん)       


左の廃墟は 「 ウエカワ 」 の家
玄関前の壁には
へちま があった
イメージ
8歳・小学二年生の私は、さも得意げに
「 おばさん、ヘチマの実はこれがエエんで 」・・と
未だ小さいヘチマの実に
口に含んだ呑み掛けのヨーグルトを吹きかけた。
「 ホーかいね、はよー大きなったらエエね 」
・・と、ウエカワのおばさん
我家の花壇にヘチマを育てていた私
吾のヘチマの実にも、同じことをしていたのである。
大きく成る・・様な、そんな気がして。

私を可愛がって呉れた 「 ウエカワ 」 の皆さん、今はどこに。

右に

「サトオッチャン」 
が、住んでいた家
・・・ ・・・
「 サトオッチャン 」
昭和35年 ( 1960年 )
6歳・幼稚園年長さんの私
親父から20インチの自転車をプレゼントされた。
この頃は親父も羽振りが良かったのだ。
自転車に乗って意気軒昂の私、
通園、通学の路を颯爽と駆ったのである。

大騒動

コロ無しでもチャンと乗れる 」
・・・と、
片方だけ残っていた自転車のコロ ( 補助タイヤ ) を取除いた。
然し、コロ無しでの運転は ぎこちなかった。
如何に幹線道路とは謂え いかんせ島の路、両側に家が立ち並ぶ処は まさに路地。
人とすれ違う度に
あっちでぶつかり、こっちでころんだ。
コロ無しで走るには、も少し早かったのである。

我家に帰らうと、
「サトオッチャン」 の玄関前にさしかかった。 ( ↑ 写真中央 )
されど、この辺り 少しだけ上り坂。
高潮で海水が乗り上げないように海沿いの路面を嵩上げした因である。
自信のなさも合いまって 自然にスピードが鈍った。
案の定、ヨロけたのである。
そして、転倒した。
然し、それだけでは済まなかった。
道路の左端 ( 写真・廃材の積まれた処 ) は、道路より 一段と ( 50㎝位 ) 低かった。
こともあらうに、
その一段と低い方へ、自転車を下敷にして転落してしまったのである。
そして、
右ハンドルのブレーキの先が 頬を突き抜けた。
・・・かと想うほど、私の左頬に突き刺さった。
「 ギャッー !!
私の悲鳴を聞きつけ、皆が家から飛出した。
嗚呼  どこまでも派手な子供である。
「 花田の孫が怪我した 」
・・と、もう大騒動。
真先に駈けつけたサトオッチャン。
転倒している 私と自転車を起し、その自転車を押して我家まで届けて呉れたのである。
「 サトルー ( 親父の名 )、ユキノリがコケテのぉ 」
親父は笑っていた。
左頬以外、怪我は無かった。
そして、その左頬の内出血も、暫くすると消えた。

「 せっかく、えくぼ が できちょったのに・・・」
えくぼ は、怪我の証し
怪我をするは男児の誉れ、
此を武勇伝 と、得意になって自慢していた
・・・のに

コメント

故郷は遠きにありて想うもの

2021年02月11日 13時34分28秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

「 嗚呼、行ってしもうた 」
・・・と、祖母 ( 母方)
一人窓辺に佇み、海峡を見つめては      
そう 呟いていたという。
( 佇む ・・ その場に留まっまま・・坐ったまま)

昭和37年 ( 1962年 ) 秋、
母方の蒲刈町 向、従妹の運動会での写真
前列、私8歳  母28歳  妹1歳  祖母  妹4歳
後列、姐さん  従姉姉妹  伯母さん  従弟
       
美佐枝ちゃん元気ですか
御手紙頂いてながい事送るを出さずごめんね
美佐枝ちゃんが待って居ろうかと思いても手紙か書くのがたいぎいのでゆるして下さい
美佐枝ちゃん三人の事を思うとなみだが出てしよう有りません。
病気せぬように一生けんめいべんきょうしなさい
あまりながいこと便りがないがないので もう おばあさんの事わすれたのかと思て居ました □□あれがとう
千代子も一生にうつせばよいのにと 皆ゆうて居ます
お姉さんも一生険命い学校にかよつて居ます
あんたも遠くに 遊に行かないて千代子をあそんでやりなさい
又 おじい様の二十五回忌がきて居ます
其時はおかあさんがかえられんかったら

福原のお伯母様や信行兄さんとつれてもどってもらいなさい
美佐枝ちゃんが帰られんようでしたら六月にします  又帰ってこられたらおじい様の あたり日にちにします
そこわ 信行兄さんと思 ( 想 ) 談して見なさい
皆なにも又 此ちから知らせます
ちょうど夏休みに成るから良いと思います
たのしみに待っております
元気でね  さようなら
幸徳
美佐枝  さんに
千代子
おばあさんより

此の手紙はかいて一ヶ月たちました

お姉ちゃんがふうとうを買て来てくれないからおそく成りました
ごめんね
イリコオクります

昭和43年 ( 1968年 ) 祖母からの手紙である。

唯ひたすらに、「 帰って来いよ 」 ・・・と、切願している。
祖母は、遠き処に行ってしまった孫を、孫の顔を見たかったのである。
しかし、祖母の切ない願いは叶わなかった。
・・・リンク→故郷に錦を飾る それまでは


私の故郷
広島県安芸郡
下蒲刈 ・三ノ瀬、丸谷、下島
上蒲刈 ・向

望郷
「 田舎では仕事が無い 」
・・・と、親父。
心機一転、起死回生とばかりに、一家を引連れ大都会大阪へ出た。

昭和38年 (1963年) 4月のことである。
「 どうして、大阪へ・・・ 」
我が子にひもじい想いをさせたくない・・此も仕方の無きこと
母はついてゆくしかなかった。
しかし、
そんな理由なぞ、7歳の私に分かるものか。
「 故郷に帰りたい 」
との、望郷の想いが募るばかりであった。


故郷は遠きにありて想うもの

「 瞼に焼付いた吾故郷を確認しやう。
  そして、
積年の想いを遂げん 」 ・・・と
昭和54年 (1979年) 6月19日
私は、一人帰郷した。

それまで、二度帰郷したことがある。
一度目は、
大阪に出た 昭和38年 ( 1963年 ) の盆休み、
貢・叔父に連れられ、私だけ三ノ瀬・丸谷に帰省した。
二度目は、
昭和44年 ( 1969年 )、
向の母方祖母の病気見舞に急遽 母と四人で祖母の許へ馳せた。
 
中学三年生の10月
・・・リンク→ 「 おばあさん どうやった? 」 ・・・○○○ が 問いかけた
                引き潮が 満ち潮に変わる時
しかし、何れも もの足りなかったのである。
それ以来の帰郷であり、三ノ瀬・丸谷には16年振りのことであった。

   
仁方港からのフェリー から見た故郷

驚いたは、
山々には、車が通れる道路が走り、海峡には 蒲刈大橋が跨いでいる
埋め立てられた 丸谷の波止場 、蒲刈中学校前の浜。
下島の田圃が宅地に変貌しようとしている。
嗚呼・・吾想い出の海も山も何処へ。
此が、時の流れと謂うものか。

幼年期の面影は、かろうじて残ってはいるものの、
16年振りに私が見た故郷は、私の想いとは余りにもかけ離れていたのである。
   
祖父母の家の前と祖母
帰郷したのは、まさにサプライズ。
にもかかわらず、
祖母は大そう喜んで呉れた。そして精一杯もてなして呉れたのである。


昭和37年5月26 日(土) の航空写真 
此の瞬間 (トキ) 私は何処で何をしていたのであらうか ・・・
私の瞼に焼きついた故郷の姿である

「 故郷は遠きにありて想うもの 」
私にとって、
『 遠きにありて 』
・・・とは、
過ぎ去った時を謂う。
「 瞼をとじらば、一軒一軒の家並みが視える
  地図は確と脳裡に刻んである。

  嗚呼  歩かば、想い出る故郷 ばかり 」
・・・との、私の想い虚しく
私の瞼に焼きつけた幼年期の風景なぞ もはや 存在しなかった。
そして、懐かしむ 友ガキ すらも在なかったのである。
此処では私は 『 よその者 』 でしかなかったのだ。

時代は進化する。
16年越しの 私の想いは 叶わなかった。  さもあらん。

しかし、
瞼をとじさえすれば吾故郷はいつでも
其処にある。
そして、想い出は鮮やかに蘇えるのである。
瞼に焼きついた吾故郷と、
湧き水の如くあふれる想い出は、
永劫に、無くなりはしないのである。

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上をむいて歩こウォウォウォ

2020年09月12日 18時43分32秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

♪フゥへェフォ ムフヒテ アルコフォフォフォ
   ナミダガ コボレ ナヒヨフォフォニ♪

「上をむいて 歩こおおお じゃ
「ちがうんで、歩こウォウォウォ じゃで」
「ちがうわい 歩こおおお じゃ」 
 と、3級上のタカ君 ( 岡野 ) が 物凄い見幕で怒鳴って来る。
「 テレビで そう唄ようる・・のに 」 
 と、私は引下がったのだけれど・・・
昭和37年 ( 1962年 ) の事である。

この歌と伴に、口笛も流行った。
「 夜、口笛を吹いたら、蛇が出るど

そう云って大人たちに叱られても、どこ吹く風か。
子供らも挙って唇を尖らせた。そして、みなで競って口笛吹いたのである。
勿論、口笛吹くは男児ばかり、
女子は 「 女が口を突き出すのはハシタナイ 」 といって叱られるもんだから、
言われるとおり、「 ハシタナイ真似 」 は、しなかった。
8歳の私、
『 めじろ取り 』 の叔父の口笛を見様見真似、5、6歳の頃 既に習得していた。
・・・リンク→メジロ と とりもち と 百舌鳥獲り
だから、得意げになって、誰よりも大きな音で吹いてみせた。調子に乗って、音を振るわせた。
それだけではない。
唇を突き出して吹くもの だけではなく、
" 口を イ の字形にして上の前歯の内側に舌を宛て、その舌先を使って鳴らす"
・・やり方の口笛を披露して、皆に自慢したのである。
そして、
『 口笛で鼻唄 』 ・・・なかなかシャレたものと、一人悦に入ってたのである。

昭和37年(1962年) 
小学校二年生

私がこの頃見た漫画の中に、今も尚その場面が焼付いているものがある。
『 やまびこ君 』 ・・・・の、タイトル・・・・だったと想う。
その場面は、こうだ。

やまびこ君が死んだ。
悲しみの余り涙がこぼれて止まらない。
「 そうだ、涙がこぼれないように、上を向いて歩こう 」
「 ♪上を向いて歩こおーー ♪」
と、唄いながら、肩を組んだ三人が、上を向いて歩いている。
ドテッー !!
路傍の石につまずいて転んでしまった。
「上を向いたら、足許がみえない、下を向いて歩こう 」
と、三人は同じ様に肩を組んで、こんどは下を向いて歩く。
「 ♪下を向いて歩こおーー♪」
ドカッ !!
今度は家の板塀に頭をぶっつけてしまったのである。
目から☆が出た三人組、
泣きながら、
「 やまびこ君 !!!
と、山に向かって叫んだ。
やまびこ君!!!やまびこ君 !!  やまびこ君 ! ・・・・
それは、いつまでも こだまするのであった。

もう一度見たい・・・と、想う。
がしかし、このまま見なることなく、
「 もう一度 みたい 」・・・と、そう思い続ける方がいい
・・・とも、想う。

リンク→心の歌

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