私が演劇を見始めたのは高校生の時である。その頃は若い人がたくさん見ていた。大学に入ってからも、東京労演(今はもうないそうだ)に入って演劇を見ていた。帰郷してからも見続けていたが、仕事が忙しくなりやめてしまった。
そして退職してからもう一度浜松演劇鑑賞会にはいった。すると、観客はお年を召された人ばかりであった。
今日の演劇「ら・ら・ら」は、そうした演劇をみる人々の年代にぴったりあった内容であった。
退職した男性、主婦、退職した夫を「抱える」女性、そういう人びとが集まって合唱を楽しんでいた。しかし中心となる女性(猪飼芳子)が、どうせならコンクールに出場しようと提案する。そこから多層的な葛藤が発生し、また隠れていた葛藤が明らかになる。ハーモニーがとれていた集団に、不協和音が鳴り出す。
合唱は楽しみたいがコンクールにはでたくない人、その練習が増えることに難色を示す人、それに対する積極的にコンクールに出場しようという人々。それが第一の葛藤である。そしてそれぞれのメンバーがそれぞれに抱える家庭内の葛藤。そしてうまくいかなかった自分自身の人生を不満に思い仮想的な人間となってサークルに来ている男性(筑紫保)、これは個人の精神のなかの葛藤である。そして自分の家を練習場として使用させている指揮担当の赤城家の夫婦間の葛藤。そういう多層的な葛藤が舞台上で演じられる。
それらの葛藤は決してフィクションではなく、実際に存在するものだ。したがって見ている人は、自分自身にひきつけて見ていたことだろう。舞台上で演じられている葛藤は、日常生活における葛藤でもあるのだ。
なお葛藤は、演劇の重要な手法でもある。
私はこの劇を見ていて、これ映画化すればよいのにと思った。この劇で表現された葛藤は、現実に存在するものであり、とりわけ退職後の男性がみずからのあり方を振り返る契機になるのではないかと思ったからだ(家事をまったくしない男性はそこらにたくさん転がっている。ここで書いておかなければならない。私は、家事は料理をふくめて何でもできるし、やっている)。演劇を見て、映画を見て我が身を振り返る、そういうこともあり得るだろう。この台本は、映画化されたら、もっと生命力を持つことになろう。
この「ら・ら・ら」、全国を回っていくのだろうが、おそらくよい評判を得るであろう。全国の演劇鑑賞会の会員が、この演劇を見てちょうど身につまされる人生を送っているからである。
そして退職してからもう一度浜松演劇鑑賞会にはいった。すると、観客はお年を召された人ばかりであった。
今日の演劇「ら・ら・ら」は、そうした演劇をみる人々の年代にぴったりあった内容であった。
退職した男性、主婦、退職した夫を「抱える」女性、そういう人びとが集まって合唱を楽しんでいた。しかし中心となる女性(猪飼芳子)が、どうせならコンクールに出場しようと提案する。そこから多層的な葛藤が発生し、また隠れていた葛藤が明らかになる。ハーモニーがとれていた集団に、不協和音が鳴り出す。
合唱は楽しみたいがコンクールにはでたくない人、その練習が増えることに難色を示す人、それに対する積極的にコンクールに出場しようという人々。それが第一の葛藤である。そしてそれぞれのメンバーがそれぞれに抱える家庭内の葛藤。そしてうまくいかなかった自分自身の人生を不満に思い仮想的な人間となってサークルに来ている男性(筑紫保)、これは個人の精神のなかの葛藤である。そして自分の家を練習場として使用させている指揮担当の赤城家の夫婦間の葛藤。そういう多層的な葛藤が舞台上で演じられる。
それらの葛藤は決してフィクションではなく、実際に存在するものだ。したがって見ている人は、自分自身にひきつけて見ていたことだろう。舞台上で演じられている葛藤は、日常生活における葛藤でもあるのだ。
なお葛藤は、演劇の重要な手法でもある。
私はこの劇を見ていて、これ映画化すればよいのにと思った。この劇で表現された葛藤は、現実に存在するものであり、とりわけ退職後の男性がみずからのあり方を振り返る契機になるのではないかと思ったからだ(家事をまったくしない男性はそこらにたくさん転がっている。ここで書いておかなければならない。私は、家事は料理をふくめて何でもできるし、やっている)。演劇を見て、映画を見て我が身を振り返る、そういうこともあり得るだろう。この台本は、映画化されたら、もっと生命力を持つことになろう。
この「ら・ら・ら」、全国を回っていくのだろうが、おそらくよい評判を得るであろう。全国の演劇鑑賞会の会員が、この演劇を見てちょうど身につまされる人生を送っているからである。