浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

「五十四の瞳」を理解するために(3)

2023-09-22 19:43:35 | 演劇

 戦後の在日朝鮮人の子どもに対する教育は、在日朝鮮人連盟が積極的に取り組んだ。劇中の朝鮮人学校は、静岡県でもつくられた。

 以下、自治体史の記述である。

 1945年8月の解放は、今まで奪われていた朝鮮の文化、そして朝鮮語を子どもたちが学習する画期となった。

 日本在留を決意した朝鮮人たちは全国各地で学校を創設した。静岡県でも1945年11月、浜松市に夜学として開校され、翌年2月には浜松朝連学院(のち浜松朝鮮人学校と改称)となった。その頃三島市にも三島朝連学院が設立され、また小笠郡掛川町などでは国民学校の教室を借りての民族教育が始められた。また静岡市では民青学院が創設され、県下青年たちを集めての民族的かつ政治的教養教育の機関として動き始めた。

 1947年4月、文部省は朝鮮人の子どもも日本人の子どもと同様に就学させる義務があるが、強制は困難であるので適切に措置すること、また朝鮮人が自ら学校を新設することについて都府県が認可することは差し支えない、との通知を伝達した。

 このように朝鮮人の民族教育は一応容認されてはいた。ところが1948年1月、文部省は朝鮮人に対し日本の法令に服することを要求し、朝鮮人児童・生徒に日本人と同様の教育を受けることを強制した。 同時に朝鮮語の教育は正課外でのみ可能であるとして民族教育を否定した。

 さらに1949年10月、政府は在日朝鮮人連盟を解散させた後、朝連などが設置した民族学校の閉鎖を命令した。朝鮮人の子どもに対する義務教育は公立学校で行い、 無認可の朝鮮人学校は認めないというのである。これにより三島朝連学院は警察と県職員の手により閉鎖されたが、浜松の浜松朝鮮人中小学校では激しい抵抗により閉鎖を免れた。また沼津市在留の朝鮮人は学校閉鎖に対して反対闘争を行った。

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