浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

思うこと

2024-09-03 19:56:37 | 日記

 今朝、ポストを見たら、『地平』10月号が入っていた。まずわたしは、「編集後記」を読んだ。編集長の熊谷氏は、八王子に住んでいる。そこから横田基地を離発着する米軍機が見えるという。その機数が増えているという。

 わが家から、畑から、自衛隊浜松基地を離着陸する自衛隊機を見る。その機数も増えているように思われる。以前、航空自衛隊浜松基地に交渉に行ったとき、幹部自衛官に米軍との共同訓練について尋ねたことがあった。その答えは、全面的に肯定的で、米軍との訓練が彼らにとっては歓びであるかのようなものであった。

 今や日米両軍は、一心同体となって世界を相手に何らかの軍事行動を展開しようと企んでいるようだ。

 わたしは日米関係を、「対米隷属」ということばで表現している。日本の支配層は、アメリカに屈従すること以外考えず、それがすでに体全体に染み付いているからだ。アメリカの言うことは、何でもハイハイと素直に聞く。80年前は、「鬼畜米英」と叫んでいたのに、負けたとなったらこんどは平身低頭。支配層の都合により、まったく逆のことでも平気でやるのが支配権力である。

 熊谷氏は、そうした日本の支配層が、日本学術会議など独立した機関やメディアなどを従属させようとすることを指摘する。「彼ら自身が独立の尊さと価値を知らず、より「強い者」の傘のもとでエラそうに振る舞うということ以外の行動様式を学ぶ機会がなかったからだろう」と書く。しかしそれは支配層だけではなく、ふつうの人びとも、強者に従属することによって「エラそうに振る舞う」。在職中、そういう人物をたくさん見てきた。兵庫県の騒動も、同じような構造が見える。公益通報した人が、たった一人だったこと、そして自死しなければならなかったこと、兵庫県庁にはたくさん公務員がいるのに、ほとんど全員が、知事と「牛タン」メンバーと闘うことをしなかった。

 昨日の夕方、晴れていたのに急に黒雲が天を覆い、大粒の雨が降り注いだ。もうずっと前、子どもたちと訪れたシンガポールで体験したスコールとまったく同様の降り方だった。気候変動の中、日本はシンガポールと同じような気候になっているのだ。

 熊谷さんは、「今日も日本の青空を、大量の二酸化炭素を出しながら、米軍機が飛んでいく。この空の自由と独立を私たちはいつ取り戻せるだろうか」で、文を結んでいる。

 対米隷属国、「米軍主権国家」のままでいるかぎりは、日本の未来は、気候の問題を含めて、明るくはない。わたしにとって政治選択の基準は、「米軍主権国家」への態度、消費税への態度で決まる。極右政党=自由民主党、それに下駄の雪のように自民党にくっつく公明党、そして乱暴な権力欲ばかりの維新、そして雑多な者が選挙のために集合した立憲民主党なんかは、選択肢にはない。

 総選挙がこの秋にあるともいう。変わらないだろう、とわたしは悲観している。

 

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【本】堀和恵『評伝 伊藤野枝』(郁朋社)

2024-09-03 09:00:33 | 

 『初期社会主義研究』第32号で、大岩川嫰氏が本書を絶賛していたので、図書館から借りて読みはじめた。

 伊藤野枝は、みずからを成長させたいという強い意志をもって生きた女性である。豊かなエネルギーを持ち、様々な軋轢を超えて自分自身を求めて生きてきた。そういう女性の「評伝」を書く場合は、書く側にも強靭なエネルギーが必要だ。

 しかし読みはじめて、この本にはそれがない(瀬戸内寂聴や村山由佳、井出文子の本にはある)。淡々と野枝の人生を書く(だから野枝の「評伝」なのに、全文224頁しかない)。文に熱を感じない。それでも我慢して読み続けたのだが、141頁に来て読むのを止めた。1919年10月の婦人労働者大会の記述があったからである。

 それが書かれている第四章の参考文献には、平塚らいてう自伝、山内みな自伝が掲げられているが、それを読んだ形跡はない。ここに記されている内容は、栗原康の『村に火をつけ 白痴になれー伊藤野枝伝』の記述をそのまま踏襲しているのである。

 わたしは栗原の記述が「捏造」であることを平塚、山内の自伝をもとに批判した。栗原も参考文献としてふたりの自伝をあげているのだが、勝手にその場の情景を捏造して、栗原が思いえがく野枝像をつくりあげようとしたのである。

 わたしの批判をここに掲げる。

第五章のはじめに、「野枝、大暴れ」という項目がある。一九一九年一〇月五日、友愛会婦人部主催による「婦人労働者大会」があった。 国際労働大会に派遣されるILO政府代表・田中孝子(渋沢栄一の姪)に「実際に労働に従事する婦人労働者の真の要求を告げる目的で」開かれたもので、「八人の女工が・・熱弁」(大原社研『日本労働年鑑』第一集)を振るった(これは当時友愛会にいた市川房枝が企画したものである)。大会が終わり、控室に戻った田中孝子に野枝が詰め寄ったときの顛末を栗原は書いている。その際に使用された資料は、山内みなの自
伝、平塚らいてうの自伝である。
(1)栗原本は、らいてうが「外まで聞こえるような怒号」を聞いて、らいてうが「駆けつける」となっているが、らいてう自伝では控室にいたときに野枝が入ってきたと記されている。「外まで聞こえるような怒号」は根拠があるのだろうか。
(2)栗原本では、らいてうが「田中が可哀想だと思いとめにはいった」と記されているが、らいてう自伝では、野枝をたしなめるつもりでひとことだけことばを挟んだとなっている。
(3)栗原本では「・・・、さらにまくしたてた。このブルジョア夫人め、ブルジョア夫人め」とあるが、これはまったくのフィクション。
(4)栗原本では、山内みなが「とめにはいった」となっているが、山内みな自伝では、とめたのは市川房枝と記され、野枝と田中との言い合いが終わってから、野枝はみなのところにくるのであって、栗原のいう、みなが「野枝の逆鱗にふれ」るという事実はない。
(5)栗原本では、野枝が山内みなに語ったことばのなかに「なんでわからないの」とあるが、山内みな自伝ではそれはなくて、ここの部分は「本を送ってあげます」となっている。ちなみに後で実際に本は送られてきた。
 みられるように、まず、彼は事実をあまり重視していない。明らかに創作がはいっている。彼が描こうとしている野枝像をより際立たせようと様々に修飾を加え、それを根拠にして断定していくという乱暴な手法を用いて野枝 像をつくりあげている。

 堀も、野枝が田中と「騒ぎ」を起こしていて、それを聞きつけた平塚が「駆けつけ」「止めにはいった」、山内みなも「止めにはいった」と書いている。まさに栗原の記述を踏襲しているのである。らいてう、山内みなの自伝を読めば、栗原が一定の状態を捏造したことがすぐわかるはずだ。堀は果たして自伝をきちんと読んだのかと疑わざるを得ない。

 評伝にしても、歴史書にしても、史資料や文献をもとにていねいに史実を発掘して、それをもとに叙述するということが求められる。栗原が書いたものを、きちんと史資料や文献で確かめることをしないで書くということは、読者に対して失礼である。

 ちなみに、堀はそれぞれの記述に関して典拠を示さずに、巻末に章ごとに参考文献を掲げているだけである。これでは歴史書としては失格である。

 わたしは学生時代から野枝が書いたもの、野枝について書かれたものをほとんど手に入れ読んできた。本書から、あらたな史実を発見することはなかった。とはいえ、視点を変えることによってあらたな野枝像を描くことは可能ではある。だが、本書には野枝をみつめる新たな視点というものを感じることはなかった。

 この本で新しいものといえば、甘粕正彦、辻まこと、伊藤ルイらのことが第五章で書かれていることであるが、わたしにとっての新しい事実は書かれていなかった。

 大岩川氏が、本書をなぜに「すぐれた評伝」とするのかまったく理解できない。「評伝」とするからには、史実をもとに野枝像を描くことでなければならない。

 

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