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浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

歴史を、勝手な「記憶」にされてたまるか!

2022-04-17 20:27:51 | 学問

 『世界』臨時増刊号を読んでいる。そのなかの、橋本伸也氏の「「紛争化させられる過去」再論」を読んだ。

 現役を退いた私は、当然の年金生活。昔のように高い本でもどんどん買い込むということはしなくなった。どうしても必要なものしか買わないと心に決めている。購入して読んでいない本もたくさんあり、これ以上増やしたくないという思いもある。

 だから関心を持っても読んで来なかった本がある。橋本氏らの「記憶」に関わる論考の数々である。

 日本でも歴史修正主義がはびこり、しっかりした歴史研究の方法に則って研究され叙述された過去の歴史(記憶)を、否定したり、あるいは史料等に基づかない荒唐無稽の説を創出して、定説を相対化させるようなことが起こっている。

 また教科書に関しても、歴史研究の成果ではなく、政治・行政の思惑から強権的に「訂正」させるということも行われてきた。その1つに朝鮮人の徴用工について、「強制連行」という言葉の使用が奪われた。私は、在日朝鮮人の歴史について研究もしてきたが、私は「強制的な労務動員」と書いてきた。

 戦時下、日本政府は、日本の労働力不足を補うために朝鮮人を大量に動員してきたが、動員されてきた朝鮮人への聞き取り、あるいは公的な資料によっても、そこには強制の契機がかならず存在した。「強制連行」でもかまわないと思うが、私としては厳密な意味で、「強制的な労務動員」として書いてきた。単なる「労務動員」では間違いであって、そこに「強制」の契機を書き込まないと、戦時下の朝鮮人の労務動員を説明したことにならないからだ。

 なぜそのような書き方をするかというと、中国人の強制連行と明確に書き分けるためである。中国人の場合は、まさに日常生活の中で、突然日本軍兵士や傀儡軍により拉致され、食事も水も与えられない状態で一定の数が確保されるまで塘沽の収容所に閉じこめられた。そして痩せ細った身体を抱えたまま日本に連れてこられ、列車に乗せられ、到着した時には現場に向かうためのトラックにも乗れないほど衰弱していた。したがって、多くの中国人が収容所で、現場で殺されたのである。

 そのように強制連行された中国人の本質を明確化するために、私は、中国人は「強制連行」、朝鮮人は「強制的な労務動員」とするのである。

 以上のように、歴史を叙述するときには、かなり神経をつかう。史資料に厳密に沿いながら書かなければならないし、間違ったことは書いてはいけないし、もしわからなかったらわからないとしなければならない。

 ところが、その歴史が政治に従属し、書き替えられている。政治に都合が良いように、歴史は書き替えられ、それにももとづいて政策などが打ちだされているというのだ。橋本氏は、それを「記憶の戦争」といい、ロシア、そしてソ連支配下にあった中東欧諸国について研究をおこなっている。そこで、「歴史の国有化」が起きているというのだ。

 自分たちに都合のいいように、歴史を書き替え、それをもとに「国民の記憶」をつくりだしていく。「国民記憶院」とか「歴史家委員会」などがつくられ、組織的にそれが行われているというのだ。

 歴史は、客観的なもので、よいこともわるいこともあり、それを総体として認識する必要がある。自分勝手に構築できるものではないのである。とくに国家はそれに介入してはならない。

 ロシアがウクライナ侵攻を開始したとき、プーチンが「特殊軍事作戦」開始の演説をしたそうだ。私は読んではいないが、かなり歪曲されていて、粗雑な事実認識の上に構築されたものだという。

 歴史が書き替えられ、権力者の悪行を正当化するための手段に使われてしまう。

 何ということだ、と私は思う。歴史を研究し、叙述するということは、史資料の断片を積みあげていく作業でもある。時間はかかるし、集中力は求められるし、たいへんな仕事である。

 そうしてできがったものを権力者が足蹴にする。許せないことだ。

 

 


核脅迫のこと

2022-04-17 10:40:55 | 国際

 昨日の『東京新聞』の文化欄に、池内了氏の「ロシアの暴挙止める理性を 核抑止論から核脅迫論への転化」があった。

 プーチンは、核兵器の問題でも一線を越えた。核兵器は戦争を抑止する手段という位置づけであったのだが、プーチンはそうではなく、核脅迫論を唱えた。核脅迫論とは、「核兵器の威力を前面に出し、いかなる敵であれ核によって殲滅するとの脅しで屈服させるとの立場である」。

 プーチンにより、「核抑止論は核脅威論に簡単に転化することが明らかになった」のである。

 池内氏は、「核抑止論の化けの皮が剥がれたと言えようか。それにしても、脅迫によって自己の主張を通そうとするのはヤクザ同然ではないか。なんと野蛮な世界になってしまったのだろうか」と主張する。同感である。

 プーチンにより核抑止論はその意味を失ったのであり、核廃絶こそが求めるべき唯一のことであることが証明されたのだと、私は思う。核兵器だけではなく、それを応用した原発なども廃絶されるしかないことが、ロシア軍のウクライナ原発攻撃により、これも明らかになった。

 ロシア軍のウクライナ侵攻から学ぶことは多い。学ばなければ未来をたぐりよせることはできない。「野蛮な世界」を招来させてはいけないのである。

 


『世界』臨時増刊

2022-04-17 10:03:44 | 

 昨日、『世界』臨時増刊が届いた。「ウクライナ侵略戦争ー世界秩序の危機」である。

 近年『世界』の販売部数が増えているとのこと、嬉しい限りである。私は高校生の頃から購読を始め、政治社会の問題を考える際の重要な資料としてきた。初代編集長は吉野源三郎氏であった。私は、同氏が『世界』に書きつづけ、それを新書化した『同時代のこと』を傍らに置き、ときに読み直している。同氏の政治社会の見方は、私にとっての羅針盤である。

 さて臨時増刊、ひとつだけ読んだ。西谷公明氏の「続・誰にウクライナが救えるか 最悪の戦争の暁に」である。トヨタロシア社長などいろいろな業種を経て、N&Rアソシエイツ代表が彼の肩書きである。

 ここには、軍事侵攻に至る経過が記されている。「真の当事者が、実はウクライナとは別のふたつの大国、ロシアとアメリカであることが、戦火のなかを彷徨える人々の悲惨さをいっそう際立たせている。」とある。そうだろうと思う。ウクライナの背後にはアメリカがいることは当然の前提である。

 この文には、ロシアの侵略に至るウクライナ国内の動向が記されている。私が知ることのなかった複雑な動きや対立、しかしそれが暴発しないように舵取りがなされてきたこと。「右派セクター」の動きもあった。ウクライナの対立を生み出す歴史的経緯もあった。そして近年の、ウクライナが「ヨーロッパを向いて国民国家を形成しつつあ」ったこともある。

 いろいろな要素が混じり合ってウクライナの現在をつくりだしてきたのだが、遠く日本にいる私などは当然それに関わることもなく、ロシアの軍事侵攻後に知るだけである。

 しかし、言えることは、もうもとには戻れないということだ。軍事侵攻は、ウクライナをほぼ完全にヨーロッパ側に押しやることになる(プーチン政権のねらいは決して実現されない)し、ロシアは主要国からは孤立化することになる。

 もし軍事侵攻がなされなかったなら、ロシア・ウクライナ間の「修復」(こういってよいのかどうかはわからないが)の可能性はあっただろう。だが、軍事侵攻による殺戮と破壊は、両国間の決定的決裂以外にはありえない。背景にあったロシア・ウクライナ間の諸々のことは、ロシア軍の砲火が吹き飛ばしてしまったのである。

 西谷氏は、末尾にこう記す。

 私たちはこの30年、冷戦後の"後始末"をおろそかにして、グローバリゼーションの果実ばかりを追求してきたのではなかったか 。ロシアはいま、大量の核を保有して、アメリカが主導する冷戦終結後の国際秩序に挑戦している。冷戦は終わってなどいなかったのである。否、むしろ一層大きな脅威として戻ってきた。この最悪の戦争が世界につきつけるのはそのことだ。 ロシアからの独立と、国家の存亡を賭けたウクライナの戦いはつづく。

 世界は、2月24日以前には戻れない。だから、私たちはこの30年をふり返り、今後どういう世界の秩序を構想するのか熟慮しなければならない地点に立っているのである。