『世界』臨時増刊号を読んでいる。そのなかの、橋本伸也氏の「「紛争化させられる過去」再論」を読んだ。
現役を退いた私は、当然の年金生活。昔のように高い本でもどんどん買い込むということはしなくなった。どうしても必要なものしか買わないと心に決めている。購入して読んでいない本もたくさんあり、これ以上増やしたくないという思いもある。
だから関心を持っても読んで来なかった本がある。橋本氏らの「記憶」に関わる論考の数々である。
日本でも歴史修正主義がはびこり、しっかりした歴史研究の方法に則って研究され叙述された過去の歴史(記憶)を、否定したり、あるいは史料等に基づかない荒唐無稽の説を創出して、定説を相対化させるようなことが起こっている。
また教科書に関しても、歴史研究の成果ではなく、政治・行政の思惑から強権的に「訂正」させるということも行われてきた。その1つに朝鮮人の徴用工について、「強制連行」という言葉の使用が奪われた。私は、在日朝鮮人の歴史について研究もしてきたが、私は「強制的な労務動員」と書いてきた。
戦時下、日本政府は、日本の労働力不足を補うために朝鮮人を大量に動員してきたが、動員されてきた朝鮮人への聞き取り、あるいは公的な資料によっても、そこには強制の契機がかならず存在した。「強制連行」でもかまわないと思うが、私としては厳密な意味で、「強制的な労務動員」として書いてきた。単なる「労務動員」では間違いであって、そこに「強制」の契機を書き込まないと、戦時下の朝鮮人の労務動員を説明したことにならないからだ。
なぜそのような書き方をするかというと、中国人の強制連行と明確に書き分けるためである。中国人の場合は、まさに日常生活の中で、突然日本軍兵士や傀儡軍により拉致され、食事も水も与えられない状態で一定の数が確保されるまで塘沽の収容所に閉じこめられた。そして痩せ細った身体を抱えたまま日本に連れてこられ、列車に乗せられ、到着した時には現場に向かうためのトラックにも乗れないほど衰弱していた。したがって、多くの中国人が収容所で、現場で殺されたのである。
そのように強制連行された中国人の本質を明確化するために、私は、中国人は「強制連行」、朝鮮人は「強制的な労務動員」とするのである。
以上のように、歴史を叙述するときには、かなり神経をつかう。史資料に厳密に沿いながら書かなければならないし、間違ったことは書いてはいけないし、もしわからなかったらわからないとしなければならない。
ところが、その歴史が政治に従属し、書き替えられている。政治に都合が良いように、歴史は書き替えられ、それにももとづいて政策などが打ちだされているというのだ。橋本氏は、それを「記憶の戦争」といい、ロシア、そしてソ連支配下にあった中東欧諸国について研究をおこなっている。そこで、「歴史の国有化」が起きているというのだ。
自分たちに都合のいいように、歴史を書き替え、それをもとに「国民の記憶」をつくりだしていく。「国民記憶院」とか「歴史家委員会」などがつくられ、組織的にそれが行われているというのだ。
歴史は、客観的なもので、よいこともわるいこともあり、それを総体として認識する必要がある。自分勝手に構築できるものではないのである。とくに国家はそれに介入してはならない。
ロシアがウクライナ侵攻を開始したとき、プーチンが「特殊軍事作戦」開始の演説をしたそうだ。私は読んではいないが、かなり歪曲されていて、粗雑な事実認識の上に構築されたものだという。
歴史が書き替えられ、権力者の悪行を正当化するための手段に使われてしまう。
何ということだ、と私は思う。歴史を研究し、叙述するということは、史資料の断片を積みあげていく作業でもある。時間はかかるし、集中力は求められるし、たいへんな仕事である。
そうしてできがったものを権力者が足蹴にする。許せないことだ。