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浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

NHKのこと

2017-12-23 20:56:05 | その他
 NHKの失礼な徴収員(?)、前回来たときには、カーナビでテレビが見られるなら受信料を払えと言ってきたことは、すでにここに記した。私は、カーナビでテレビを見られないように改造してもらった。どのようにしたかはわからない、しかしテレビにあわせると「圏外」とでて映らない。もちろんNHKだけではなく、すべてのチャンネルが見られない。

 これで、NHKのろくでもない番組をわが家に送ってくる電波はすべてシャットアウトした。政権の広報機関と化しているNHKと、レベルの低い番組を垂れ流している民放も含めて、すべてお断りである。

 今までモーツアルトを聴きながら読書し、そして今こうしてブログを書いている。テレビのないすばらしい生活が続いている。

 NHKの回し者が来たら、カーナビに映らないことを見せてやろうと思っているが、一向に来ない。

 こういう記事を見つけた。NHK職員の高給ぶりがここにも記されている。

今のNHKに「受信料制度」は本当に必要なのか  放送法の理念とは大きくかい離している

【本】東京歴史科学研究会『歴史を学ぶ人びとのために』(岩波書店)

2017-12-23 13:06:34 | その他
 東京歴史科学研究会らしく、問題意識鮮明の文が並ぶ。ただひとつ、経済史についての文は、「経済史を学ぼうとする人びとへの入門」というもので、現実との緊張関係をもたない、つまり問題意識もなく、この一文だけが異質な感じがした。新自由主義の波が歴史学にも押し寄せているとき、経済史はどうそれに立ち向かうかというような啓発的な内容のほうがしっくりいったのではないか。

 さて巻頭は須田努である。なぜ今この本を編集して刊行するのかを単刀直入に記したものだ。東京歴史科学研究会がこうした書物を刊行するのは4度目。しばらく刊行されていなかったのに、なぜ?という問いに真摯に答えようとする。

 歴史学とは何か、と問い、こう記す。

 歴史学とは、現代的課題や、現実の政治・社会との緊張関係を持つ学問なのです。歴史とは、流れるものでも、うつろうものでもありません。現在に繋がるものなのです。過去の出来事は無限・無数に存在します。その中から一定の目的・意図に従い、断片的事実を確定しつつ選択し、それを現在に繋がるものとして紡ぐ(構築する)、ということが歴史学という学問なのです。

 私自身もそうした気持ちで歴史に臨み、現実との緊張関係をもちながらテーマを決めてきた。

 ところが、1990年代には「言語論的転回」(これを説明するのはなかなかしんどいので割愛)が起こり、歴史学に動揺が走った。しかし私は、そういう言説がでてきても、史料をもとにしながら事実を確定し、同時に今までの研究の蓄積を咀嚼しながら歴史像を描いていくという方法は間違いではないと思い、それを墨守してきた。

 須田はその後、「歴史認識」について言及している。

 ・・・現代社会に発生したさまざまな出来事を歴史的文脈から考えるセンス(歴史的洞察力)や体系的・全体的な歴史の見方を会得し、現実の社会や国家の“よりよい”あり方を考え、その中に自己を位置づけ、どう行動すればよいか、といった普遍的構想力・判断力を身につけることなのです。

 まったく違和感なく受け入れられる内容である。

 この文の後に、鮮明な問題意識をもった文がならぶのだが、いずれも啓発的なもので刺戟を受けた。近年は近現代史の本しか読まなくなっているので、長谷川裕子の文からは学ばせていただいた。近世における平和について、近代日本との対比で評価することを話しているので、それに関する研究史が紹介されていて参考になった。また朝鮮史への関心をもっているので、加藤圭木の文も。

 本書は図書館から借りだしたもの。返さなければならないので、急いで読んだものである。

【本】高杉一郎『征きて還りし兵の記憶』(岩波書店)

2017-12-23 08:59:17 | その他
 この本は、刊行と同時に購入し、一度は読んだものだ。市原さんという、著者と交流があった女性から薦められ、購入して読んだ。しかし私は、高杉の『極光のかげに』しか読んだことがなく、高杉についてほとんど予備知識なく、ある意味薦められたから義務的に読んだのだろう。記憶のなかに何も残っていなかった。

 しかし、今は違う。高杉一郎という人物に最大の関心を抱き、彼が体験し、読み、考えたことなどすべてを知りたいという思いが強い。

 高杉は自由で強靱な知性をもって、軍国主義化の日本で編集者として生き、兵として「満洲国」に送られ、その後4年間シベリアの「集中営」(コンツ・ラーゲリ)で4年間を生き抜き、その体験を対象化して分析し、それを内面化して戦後を生きた。

 高杉はマルクス主義者ではなく、終生リベラリストであった。であるが故に、強靱であった。

 マルクス主義者は、軍国主義日本の権力に厳しく弾圧され、その結果「転向」という厳しい生を選ばざるを得なかったし、またマルクス主義とそれに基づいて構築されたソビエト国家を、その実態を知らぬままに、あるいは知っていても、擁護するという虚構の世界に生きた。リベラリストは、根拠もなくむやみに何ものかを擁護するということはしない。みずからの体験や知性により、その何ものかが何であるかを判断する。曇っためがねをかけることはしないのだ。

 おのれの知性と体験からの感性とで、世界や人を見る。宮本百合子、中野重治、シベリア帰りの純粋な学徒で政治に殺された菅季治、務台理作など。そしてそこに宮本顕治が一瞬出て来る。高杉が書いたその一瞬の出来事が、宮本顕治という人物の本質を穿つ。

 本書は、自らの人生を振り返って、その人生の途上における出会いや体験を再度捉え直すというもので、今までに読んだ本に記されていることも多い。だが、その出会いや体験を、きちんと書籍にあたりそれを客観的にあとづけるという作業を経た上での叙述であり、であるが故に、読み手の私にはより感銘深いものとなる。

 同時に、高杉の読書量の多さに驚く。彼の知性は、読書を基盤として、自由で自立した思考によって生み出されたもののようだ。

 そして文章もすばらしい。書こうとする内容に過不足なく、冗長さがいっさいない。

 ただし、書かれている内容は、その前提となる知識がないと理解できないような気がする。軍国主義化の日本の出版統制や苦境に追いやられた作家たち(とりわけプロレタリア文学者たち)、シベリア抑留、ソ連史、エスペラント、中国文学等々。

 「教養」が等閑視されてからもう長い時間が経過している。高杉の著書を、感動を持って読むことができる人は減っていくことだろう。

 私にとっては、何ともすばらしい本である。