こちらの記事を読んだので、感想を。
>http://ameblo.jp/englandyy/entry-11392681740.html
とてもシンプルな例でGDP増大とか貨幣増大といったことが、個人の具体的な「幸せ」に繋がるものなのか、という疑問を呈しているのではないかと思います。これは一理あるように思いますが、よくよく考えてみると、少し違った面も見えてくるのではないかな、と思います。
記事中の例では、農家と漁師がそれぞれ1人で物々交換でも経済が成立してしまう状態となっています。これがちょっと理解を難しくしているかもしれない、と思います。
そこで、具体例をもう少し広げて、農家を10人、漁師を10人とします。
農業では米だけを収穫しており、1人当たり生産量を10とします。すると、10人全員では100の生産量が得られます。漁師も1人当たり漁獲量を10として、農家の米と交換取引しているものとします。
人数が増えただけで、最初の1人ずつの例と何が異なるのか、という疑問をもたれるかもしれません。ここで、生産性の向上が何をもたらすのか、ということを説明したいと思います。
記事中で指摘されていたような点を考慮して、各個人の食べられる量が限定的であるので、決まった量だけ米を生産できればいい、ということで最初は考えてみましょう。
生産性の向上とは、具体的には1人が生産できる量が増加する、ということです。米の生産量が1人10だったものが、11になり、12になり、ということで同じ労働力の投入(1人の生産者が行う仕事)で生産量が増えることになります。それは、稲刈り技術が向上したのでもよいし、脱穀方法の改良でもいいし、土壌改良の向上、堆肥の発明、等々、色々なことがあるかと思います。これらが、ある種のイノベーションであり、生産能力の向上をもたらします。
すると、同じ100の量を生産するのであれば、労働力が余る、ということになります。例えば、1人当たり生産量が10から20に向上してしまう(=生産性向上)と、10人の労働で生産できていたものが、5人でも行えるようになってしまうのです。すると、他の5人はどうすればよいのか?
これが失業という問題を生むことになるのです。
生産性向上を達成し続けると、GDPが一定(この場合は生産量が100のまま、ということ)であっても、人数が必ず余ることになるのです。その場合、残った5人は食べて行かねばなりませんが、どうしたらよいか、ということです。20の生産を行える人は、自分の取り分(収入)を減らして10を他の「働いていない人に分け与える」か、自分の仕事を半分に減らして10人平等に「仕事を分ける」か、というようなことを考えねばならないということです。
GDPが一定というような場合、この問題を抱えてしまうことになるのです。余った時間を他に使えばいい、というのはその通りです。これまで10人で作業していたものが、1人で100の生産量が得られるようになると、残り9人は他の何かをやって食べていく何かを生み出す必要があるのです。そこで、米以外のものを生産することや、歌をうたって稼ぐとか、そういう他のことが必要になる、ということです。失業問題を乗り越えるには、誰かに分配することや常に「他の何かを生み出す」ということが必要になります。
余った時間を過ごすにも、何もしないでは難しい(寝るのが好きな人は寝てるだけでもいいかもしれないが)ので、本を読むなら本を作る人が必要だし、どこかに出かけるなら交通手段や泊まる場所や食糧調達方法や…そういうモロモロが必要になります。そうした「何か」を生んできた結果が、経済の発達であり、GDPの拡大となってきました。
基本的には、生産性向上が達成されると、それは他の誰かから仕事を失わせるということをもたらすものである、ということだと思います。それが失業問題を招き、余った時間を持て余す「遊び人」的労働力過剰を生むかもしれない。それを乗り越えるには、「やること」を見つけ生み出すことが必要でしょう。経済規模拡大は、その結果起こるものではないでしょうか。
>http://ameblo.jp/englandyy/entry-11392681740.html
とてもシンプルな例でGDP増大とか貨幣増大といったことが、個人の具体的な「幸せ」に繋がるものなのか、という疑問を呈しているのではないかと思います。これは一理あるように思いますが、よくよく考えてみると、少し違った面も見えてくるのではないかな、と思います。
記事中の例では、農家と漁師がそれぞれ1人で物々交換でも経済が成立してしまう状態となっています。これがちょっと理解を難しくしているかもしれない、と思います。
そこで、具体例をもう少し広げて、農家を10人、漁師を10人とします。
農業では米だけを収穫しており、1人当たり生産量を10とします。すると、10人全員では100の生産量が得られます。漁師も1人当たり漁獲量を10として、農家の米と交換取引しているものとします。
人数が増えただけで、最初の1人ずつの例と何が異なるのか、という疑問をもたれるかもしれません。ここで、生産性の向上が何をもたらすのか、ということを説明したいと思います。
記事中で指摘されていたような点を考慮して、各個人の食べられる量が限定的であるので、決まった量だけ米を生産できればいい、ということで最初は考えてみましょう。
生産性の向上とは、具体的には1人が生産できる量が増加する、ということです。米の生産量が1人10だったものが、11になり、12になり、ということで同じ労働力の投入(1人の生産者が行う仕事)で生産量が増えることになります。それは、稲刈り技術が向上したのでもよいし、脱穀方法の改良でもいいし、土壌改良の向上、堆肥の発明、等々、色々なことがあるかと思います。これらが、ある種のイノベーションであり、生産能力の向上をもたらします。
すると、同じ100の量を生産するのであれば、労働力が余る、ということになります。例えば、1人当たり生産量が10から20に向上してしまう(=生産性向上)と、10人の労働で生産できていたものが、5人でも行えるようになってしまうのです。すると、他の5人はどうすればよいのか?
これが失業という問題を生むことになるのです。
生産性向上を達成し続けると、GDPが一定(この場合は生産量が100のまま、ということ)であっても、人数が必ず余ることになるのです。その場合、残った5人は食べて行かねばなりませんが、どうしたらよいか、ということです。20の生産を行える人は、自分の取り分(収入)を減らして10を他の「働いていない人に分け与える」か、自分の仕事を半分に減らして10人平等に「仕事を分ける」か、というようなことを考えねばならないということです。
GDPが一定というような場合、この問題を抱えてしまうことになるのです。余った時間を他に使えばいい、というのはその通りです。これまで10人で作業していたものが、1人で100の生産量が得られるようになると、残り9人は他の何かをやって食べていく何かを生み出す必要があるのです。そこで、米以外のものを生産することや、歌をうたって稼ぐとか、そういう他のことが必要になる、ということです。失業問題を乗り越えるには、誰かに分配することや常に「他の何かを生み出す」ということが必要になります。
余った時間を過ごすにも、何もしないでは難しい(寝るのが好きな人は寝てるだけでもいいかもしれないが)ので、本を読むなら本を作る人が必要だし、どこかに出かけるなら交通手段や泊まる場所や食糧調達方法や…そういうモロモロが必要になります。そうした「何か」を生んできた結果が、経済の発達であり、GDPの拡大となってきました。
基本的には、生産性向上が達成されると、それは他の誰かから仕事を失わせるということをもたらすものである、ということだと思います。それが失業問題を招き、余った時間を持て余す「遊び人」的労働力過剰を生むかもしれない。それを乗り越えるには、「やること」を見つけ生み出すことが必要でしょう。経済規模拡大は、その結果起こるものではないでしょうか。