気ままな推理帳

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山下吹(20) 尾去沢銅山は、宝永2年(1705)に真吹であった

2020-11-29 08:21:04 | 趣味歴史推論
 「尾去沢銅山の製錬法は、元禄宝永期に阿部小平治が請けて稼行していた頃は、熊野吹と称する還元法が行われていたようであるが、藩の直山となった明和以降は、以下に記したように酸化法(別子銅山と同じ 真吹法)となっていたとみられる。(「明治工業史 鉱業編」第4節熔鉱(西尾銈次郎執筆)による)」1)と書いたが、これは間違いであることがわかったので訂正する。
たしかに明和(1770頃)以降は、南部藩尾去沢銅山の「御銅山傳書」で、真吹1枚に必要な経費とその内訳「真吹一枚入方積」にあるとおり、真吹であった。2) しかしそれよりかなり前から真吹であることが 麓三郎「尾去沢・白根鉱山史」を今回調べていてわかったので、以下に記す。3)

 尾去沢銅山の始まりは通例寛文6年(1666)、尾去沢の山師長尾重左衛門が見立てたとされている。
阿部小平治4)は元禄8,9年頃から尾去沢の稼行に携わったかもしれない。藩から稼行を受けたのは元禄13年(1700)であって、13ヶ年の定であった。
阿部小平治「銅山行方御用目録」は、尾去沢、崎山等の銅山稼行に関して宝永元年~4年(1704~1707)の撮要を記したものである。その前半は専ら吹方即ち製錬に関する定目めいたものが掲げられ、後半は主に産銅に関する数字が記載されている。尾去沢銅山の産銅は、年7,8万貫~10万貫。

 宝永2年(1705)における床屋の数は、素吹床3軒、真吹床2軒であったらしく、吹方働人数は、素吹大工5、真吹大工4、吹子指など14、炭灰5、ゆり物10、合計38人、鉱石焙焼の焼釜は合計143筒であった。床数は宝永3年(1706)4月に増加して4丁となり、ほかに崎山分とも都合5丁となった。
床1丁吹1日分の入方は、銭 23貫559文であり、その内訳中主なものを挙げると
・生鉑 2斗2升、1升400文として (鉑の買上値段ではなく鋪方諸入用の平均である)     8貫800文  
・炭 30俵代  但し焼釜、真吹用分を含む                      4貫200文
・春木 80丁代                                 1貫40文
・鉱石運搬駄賃                                  264文
・素吹賃 吹大工1人180文、手子3人280文、炭灰搗1人80文、以上飯米諸色を含む          540文                    
真吹賃 大工1人114文、手子2人208文、炭灰搗1人70文、以上飯米諸色を含む           392文 
・焼釜賃 釜大工1人90文、手子2人154文、ねば取1人70文                   313文 
・床役金 但し1ヶ年床1丁につき40両として                        450文 
・手代その他の給代切米等                            3貫200文
 等である。

まとめ
 尾去沢銅山では、宝永2年(1705)に、真吹床数、真吹大工、真吹賃が記録されているので、真吹であった。

注 引用文献
1. ブログ「江戸期の別子銅山の素吹では、珪石SiO2源の添加操作はなかった?(8)」
2. 「御銅山傳書」 内田周治 嘉永2年(1849.3.10)写し 日本鉱業史料集第10期近世編上/下」(白亜書房 1988))「真吹1枚入方積」は、「御銅山傳書」(上) p140~144
3. 麓三郎「尾去沢・白根鉱山史」p78~83(勁草書房 1964.9.30)
4. web. レファレンス協同データベース>事例詳細>宮城県図書館提供(2020.3.22登録)より
 初代阿部小平治重貞(没年元禄4年(1691)、二代阿部小平治重頼(没年享保6年(1721))は、仙台藩(伊達藩)西磐井郡山ノ目村(一関市)の豪商で、鉱山稼行、材木・米の商い、新田開発等を行った。