気ままな推理帳

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山下吹(18) 別子銅山の山下吹

2020-11-15 09:00:23 | 趣味歴史推論
 別子銅山の開坑時における製錬法を書いた泉屋・住友の記録を探したが見つけることができなかった。吉岡銅山の製錬方法で開始したと考えるのが妥当である。
泉屋は天和元年(1681)から吉岡銅山を稼行しており、貞享2年(1685)に代官後藤覚右衛門に提出した覚書に「此真吹銅8貫60目」とあるから、1)別子銅山では元禄4年(1691)から真吹していたのは、確実である。
筆者が見られるのは、「別子銅山公用記」所収の「別子銅山覚書」元文4年(1739)である。2) これには、鉑吹に続き真吹(間吹の表現)の項がある。

・鉑吹1仕舞に焼鏈50荷を6吹に仕り候、この出来鈹8,90貫目より120貫目まで、床尻銅2,3貫目より4,5貫目、一円床尻これ無し鉑石も御座候、この吹炭170貫目より200貫目入り申し候。
間吹1仕舞に鈹100貫目吹き申し候、この出来銅30貫目より40貫目まで、鈹の善悪により不同御座候、銅数およそ10枚より13,4枚御座候、この吹炭36,7貫目より40貫目程入り申し候。

 江戸期の別子では、真吹は、間吹や、二番吹と呼ばれたが、記述内容から見て、ずっと真吹がなされたとがわかる。しかしその真吹と山下吹の関係に言及した泉屋・住友の江戸期の記述は見つからなかった。筆者が見つけることができたのは、昭和16年(1941)の「別子開坑二百五十年史話」の一節だけだった。3)→図
 
 因みに別子開坑後、住友家では焼鉱から鈹を製するまでの製錬 素吹または荒吹 作業を、一番吹 古来別子ではイトビン吹または伊豫吹と称す といい、鈹より粗銅を取るまでの製錬作業を二番吹といった。(粗銅を製錬して精銅とするのは、三番吹である)。これはすなわち本邦古代の酸化製錬法に、文亀・永正のころ改良を加えて出来た山下吹を採用したものに外ならない。製錬法としては他に徳川氏の初期より盛んになった東国および北国の諸銅山において奥州吹と称する還元製錬法が専ら行われていたが、同法によれば焼鉱を熔解して床尻銅と同時に出来た鈹を、さらに再び焼鉱竈に還して焙焼せねばならぬという作業上の無駄が多く、これに比し山下吹は時間と経費を節約し、かねて収銅率を高めることが出来たので別子ではこの法に依ったものと思われる。

 内容は、西尾銈次郎の説を引用したものであり、特に新たな知見はなかった。

注 引用文献
1.  気ままな推理帳「江戸期の別子銅山の素吹では、珪石源の添加はなかった?(5)」(2020.3.22)の中の図 吉岡銅山の素吹の物質収支(1685) 「泉屋叢考」第12輯 p31(住友修史室 昭和35年 1960)より。
2. 「住友別子鉱山史」別巻 p79 (住友金属鉱山株式会社 平成3年 1991)
3.  平塚正俊「別子開坑二百五十年史話」 p95(住友本社 昭和16年12月 1941)
図 「別子開坑二百五十年史話」の山下吹の部分

 


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