気ままな推理帳

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立川銅山(16)元禄12年土佐藩大北川銅山の山師が海部屋助右衛門だった

2022-06-05 08:21:23 | 趣味歴史推論
 大川村史、本川村史を読んでいたら、別子山村から藩境の峠を超えて別子銅山の南東15km付近で、大北川銅山が元禄に開発され、山師として、海部屋助右衛門がいたことを、偶然見つけた。これは、土佐藩本川郷大川村の大北川山(大喜多川山)にあった銅山で、大北川銅山、大喜多川銅山、本川銅山などと呼ばれ、別子銅山と同じ層状含銅硫化鉄鉱床である。この銅山が土佐藩にとって本格的な銅山開発の最初であった。当時の記録文書を以下に示した。1)3)
 
1. 元禄12年(1699)土佐藩四代藩主山内豊昌は、西野総右衛門を使者として、幕府の老中阿部豊後守正成に次の文書を出し、大北川山試掘の承認を求めた(「山内家記録」)。

 私領国土佐郡大北川村之山に銅山可有之由申候条、為掘可申と奉存候。私領国之内に金銀銅山於有之は見立為掘可申旨、去年春被仰出候得共、御自分様之御儀に付、此段申上候。以上
     2月10日        松平土佐守使者 西野総右衛門

 幕府の政策と合致していたので、すぐに承認され、藩では、4月には上方から請負いの山師(海部屋助右衛門)が大川村に入り採鉱が開始された。

2. 土佐藩の仕置役松平長兵衛高継がこの銅山を元禄13年(1700)に視察して、その結果を報告した文書「節録」の記録

大喜多川銅掘所、銅吹屋其外箔石割場等見分仕候。葛目太郎兵衛召連候に付、銅山様子承候処箔石次第に能成、銅山之者共きおい申体御座候
・大喜多川山の弘さ大体8,9里廻程の山にて御座候。
・東山鋪 ・西山鋪 ・栄鋪 ・本谷鋪 ・大西山鋪 ・右の外 鋪1ヶ所唯今掘立申候。
銅箔石荒焼釜117
須吹釜3ヶ所
真吹釜2ヶ所
・家数51軒 銅請之者共仕
外に
・家数9軒 銅山に被仕置候諸役人役所並番所共
男女526人 内 男471人 女55人
   右の内 他国者 469人 御国者 57人
・銅山請之手代4人罷在候。
・銅支配所より銅石掘所鋪迄14町半之道大木石をふせ往来自由能様に仕候。
・大喜多川銅山より東汗見川之内さかせ御用木山へは5,6里御座候。西桑瀬之内一ノ谷黒滝御用山へは銅山より6,7里程御座候に付、火用心危儀無御座由申候。大喜多川山分先達而阿州上松屋武左衛門材木請に伐取申候に付、仕跡山にて御座候。乍然銅山入用之炭薪之浅木分、並小屋掛材木等は御座候。
・小麦畝之銀山御座候所へも罷越見分仕候。唯今長8間余、高さ3尺余、横2尺余掘入申候。本弦に当り不申候へども、唯今出申箔石之もやう宜御座候間、追付弦に逢可申由、かね掘共申候。右銀石かね掘之者に割せ少々吹申候処銀御座候。
・同所東谷平石金石之鋪大体見分仕候。此所之儀は但州より功者成者追付罷下見合せ申筈に付、其内鋪掘申儀差止置申故未治定不仕候。
    3月28日          松下長兵衛

3. 幕府勘定奉行荻原重秀に土佐藩江戸留守居役野本平左衛門が大北川銅山の出銅量を報告した。
   土佐国銅掘出申候覚
・銅高13,050貫目余
  内
   6,969貫目余      元禄12年分
   6,085貫目余      元禄13年分
      以上
            松平民部大輔内
                野本平左衛門

4. この銅山の稼行は、山師海部屋助右衛門請けで、4年4ヶ月続いたことが、本川郷の大庄屋和田庄右衛門から提出した覚書に書かれている(「山内家記録」)。予想に反して、銅があまり採れなかった。→写

  覚
・本川之内大北川銅山、元禄12年4月より海部屋助右衛門御請仕、去8月迄年数4ヶ年掘申候へども、不勝手之由にて指止申処相違無御座候。 以上 
元禄16年未11月28日   和田庄右衛門

  岩井十郎兵衛殿

なお海部屋の子孫は、山内家の御目見商人として土佐藩から扶持などをうけている
。2)

考察
1. 大北川銅山は、土佐藩の肝煎で開発された銅山である。藩は、山師として海部屋に目を付けたのであろう。海部屋助右衛門と海部屋平右衛門との関係はわからないが、助右衛門は、平右衛門の1世代後になるのではないか。調べたが、この大北川銅山以外には情報はなかった。
2. 土佐藩の仕置役松平長兵衛高継が元禄13年(1700)に書いた記録は、的確であり貴重である。
荒焼釜117、素吹釜3、真吹釜2 と製法がわかる。それは別子銅山と同じである。別子銅山の記録で、「真吹」の初出は、元禄12年であったが4)、ここ大北川銅山では、元禄13年とほぼ同時期である。鉱山や山師が違っても山下吹であったことが確認できた。
3. 産銅量は、元禄12年6,969貫目余であった。(別子銅山は、元禄5年95,405貫目、元禄12年405,511貫目であった。)

まとめ
 元禄12年(1699)土佐藩大北川銅山の山師が海部屋助右衛門だった。 

注 引用文献
1. 「大川村史」p244~252(大川村史編纂委員会 1962) p252 →写
2. 「本川村史」p225 (本川村 1980)
3. 進藤正信「土佐白滝鉱山史の研究」p1~5(進藤正信 1988)
4. 本ブログ「山下吹(24) 別子銅山は、元禄12年(1699)に真吹であった」

写 大川村史の海部屋助右衛門のページ



 筆者は、この大北川銅山を今回はじめて知り、この周辺のいくつかの鉱山が大正時代に白滝鉱山としてまとめられ、昭和47年まで操業したという歴史を知った。以下は筆者のメモである。
「1699(元禄12)年2月に土佐藩により開坑した大北川銅山を始めとして、その後、閉坑と再開坑を繰り返す。明治4 年に樅之木鉱山開坑。明治20年住友は、樅之木鉱業所を開設し、操業したが、鉱石品位が低く採算が取れず、明治29年売却した。愛媛県西宇和郡出身の宇都宮壮十郎が大正2年から諸鉱山を手に入れ、宇宝合名会社を設立、大正5年に大北川、樅の木、大川、白滝、中蔵、喜多賀和、朝谷の7鉱山を統一名称「白滝鉱山」として、発電所や機械化など近代化を進めた。大正4年の産銅高は、143,923貫目と急激に増加した。その結果、樅之木製錬所を中心に煙害が付近一帯に発生した。会社は、製錬所の廃止を決意し、山元より鉱石をそのまま瀬戸内海へ搬出するため、宇摩郡中之庄村具定(旧三島市)まで延長21kmの索道を大正6年に敷設した。山元製錬法式から 鉱石売却方式への転換であった。大正8年久原鉱業(日本鉱業)が経営を引き継ぐと、樅之木製錬所を完全に廃止し、全て鉱石のまま自社の大分県佐賀関製錬所ほかに送り製錬を行った。昭和20年代後半から昭和30年代にかけて非常に栄えたが、昭和47年(1972)3月、閉山した。
「白瀧鉱山」は、元禄時代以来、土佐国(高知県)随一の出銅量を誇り、四国でも別子、佐々連鉱山に次いで第3位の産銅量を示した大鉱山だった。」
参考文献 ・大川村史p480~495 ・谷脇雅文「白滝鉱山が地域にもたらしたもの」『まてりあ』45(4)p259(2006) ・web.「鉱山札の研究(本川鉱山札)」-Mineralhunters ・web. 「気ままに鉱山炭鉱めぐり」>白滝鉱山(2009) ・Wikipedia「白滝鉱山」


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