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浜井筒屋忠七が寄進した半鐘が慈眼寺に現存した

2019-06-14 08:57:14 | 趣味歴史推論
2019年6月8日、慈眼寺のご住職から「井筒屋忠七が寄進した鐘が慈眼寺にある」と告げられた。あまりの事に驚き、幸運に感謝した。早速慈眼寺にとんでいき、ご住職に鐘を見せていただき、いきさつなどを伺った。写真に撮り、銘文を少し解読したので、報告する。井筒屋の足跡が古文書の文面だけでなく、実物として確認できたので、非常に価値がある。
 その半鐘(小さな釣鐘)は、慈眼寺本堂に、ご本尊様から見て右手の隅の天井近くにつるされている。外口径36cm、総高63cmの立派な釣鐘である。ご住職は、天明6年(1786)建立された本堂を平成2年(1990)に解体し、平成4年(1992)に再建立、落慶した。1)解体した際にこの鐘を大事に思い、現本堂につるしたとのことである。半鐘は、もともとは、本堂にあって法要の開始の知らせや、催事を賑やかにするためなどに使われてきたものである。(その後、一般には火事の知らせに用いられるようになった)
この半鐘の銘文は以下のとおりである。2)

無先之形摸一且    
寄之功受雖千歳
夫朽腐者乎予為
之銘曰

咄箇鐘子元是鋼銅
百錬範形一撃脱夢
育談般若聲證圓通
掛著殿上打調宮商

曽有新居濱之住
井筒屋忠七者允
尖山天亮和尚應
世之日寄法鐘一

助三霊冥福者
不図破而不堪 
調則也故改打尖
小鐘而耳雖然令

前永平當寺十三世周方谷代造焉
讃州豊田郡辻村住忠兵衛正隆作

豫州新居郡金子村慈眼禅寺常住
日本寛政七龍舎乙卯天初夏吉辰

筆者は漢文の素養がないので、全文の読み下し、解釈は後日にしたい。まずは事柄を記述したところのみを抜き出す。

「かつてあったことだが、新居浜に住んでいた井筒屋忠七は、允尖山天亮周応和尚の世(1749~1756)の日に、仏法の鐘一口を寄進した。
永平慈眼寺の前13世方谷巨周和尚の代に造った。
讃州豊田郡辻村に住む忠兵衛正隆が作った。
予州新居郡金子村慈眼禅寺の所有物である。
寛政7乙卯(1795)年初夏吉日。」

井筒屋忠七が鐘を寄進してから、方谷和尚が銘文を作り実際に鋳造されたのは、40年後の寛政7年(1795)になったということであろう。

今後、銘文の解読及び井筒屋忠七について調べたい。

注 引用文献など
1. 白石正雄 慈眼寺史(平成4年11月 1992)
慈眼寺歴代住職
第10世 天亮周応和尚 寛延2年戌辰(1749)~宝暦6年丙子(1756)
第11世 玉峯玄透和尚 宝暦6年丙子(1756)~安永7年戊戌(1778)
第12世 大雄徹道和尚 安永7年戊戌(1778)~天明7年丁未(1787)
第13世 方谷巨周和尚 天明7年丁未(1787)~寛政7年乙卯(1795)
第14世 月泉義笑和尚 寛政7年乙卯(1795)~文化8辛未(1811)
第23世 知関大宗和尚 昭和60年乙丑(1985)~現在
2. 異体字の刻字を筆者の推定で→の先の字に置き換えている(正しさは不明)
→受  →尖 

写真:慈眼寺本堂にある井筒屋忠七寄進の半鐘





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