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ズキューンと来ない転機

2012-08-20 18:59:57 | 日記風
 テレビで、アクロバットピザ回しで世界1になったとか、バルーンアートで世界1になった方を取り上げていた。

 みんな、何かに迷っていた時、ポンと飛び込んできて、その世界にのめり込んでいった。

 アクロバットピザ回しで1位になった人なんて凄いよ。負けると悔しくて更に練習して、しすぎて入院しても、入院中も隠れて練習してたって言うんだから。

 好きってこういうことだと思う。



 私は幸か不幸か、子どもの時から「これがしたい」があった。

 本が書きたい。お芝居したいっていうのがそれなんだけど、変わらずここまできている。


 ある意味根性なのか。


 こだわる性質なのか、そこら辺は不明だ。



 でも、他にズキューンと胸に入るものがないというのも事実。


 考えてみると、ここ数年、ズキューンと来ないだけで、転機かもしれない。


 なんか判らないけど、大人になってもこんなに新しい経験ができるんだなと思う事態になった。

 楽しいことかと言われると、必ずしもそうではなかった。


 楽しいだけのことってないのよね。


 ある種苦労は付いて回るものだから。そのあとの喜びなのよね。


 だから、ズキューンと胸を射らないだけで、私も転機の真っただ中かもしれない。


 その転機も新しい局面に入ろうとしている。


 今度は、ズキューンと言ってほしいものだな。

ドゥー ア ブラットバリー 偶然転がり込んだ幸せ

2012-08-20 15:00:00 | 日記風
 本日は、銀座をこの間のメダリストが行進をするというので朝から騒いでいる。

 出した結果は大きい。それは声を大にして祝っていいことだと思う。



 しかし、ここからなのよね。


 選手がどういう人生を歩むか。

 既に話のある人。次の五輪を目指す人。まだ答えの出ない人。いろいろいるだろう。


 日本の五輪の場合。それだけのために生きてきてしまうから、のちのち悲劇を招く選手もいた。



 外国では、スカラー(秀才)アスリートというのがいて、五輪の練習もするが他のことも一緒にして、医者、弁護士に転校していく人もいるようだ。


 でも、むしろ器用だと思う。

 2つのことをゆっくりでもするというのはなかなかできるもんじゃない。

 切り替えというのも難しいだろう。



 でもしなきゃいけないのよね。


 1つの夢を叶えたら次に進む。これが1番、賢い生き方であり、より人生を充実させるだろう。



 過去に金メダルを獲った選手として、記憶に妙な濃さを残したのが、スティーブン・ブラッドバリー氏だろう。
 オーストラリアの選手で男子スピードスケート(ショートトラック)において2002年に金メダルを獲得した。

 したんだけど、その獲り方が凄い。

 ソルトレイクシティで開かれた五輪でショートトラック1000メートルで1位になった。

 本当は1番最後だったのに、前の選手が1人転んだらつられてみんな倒れて、思いがけず1位になったという、五輪史上これ以上はないラッキーボーイだ。

 でも彼の場合、準々決勝で3位だったから、本来なら決勝に進めなかったんだけど、失格者が出たため繰り上がって出場した。

 ここから彼のラッキーは始まっていた。


 そして南半球において初めて冬季五輪で金メダルを獲得する運命になった。


 その後の彼はどうしているか?

 テレビで放送していたので、興味深く見た。幸せで合ってくれればなと思ったが、それどころか。


 講演活動。テレビ出演。ホテルの経営までしてるそうだ。



 彼は、努力で獲ったと、話している。

 確かに、この競技の前に大怪我をし、111針は縫うは、首の骨まで折っている。

 その選手としての歴史を見ると、タナボタで金メダルを獲ったと言えなくなる部分がある。


 今までの努力があったから、この時思いがけない時に神が舞い降り、彼を優勝させたと思えないこともない。


 そのまま、1位で滑り込めば文句は…というより、余計なことを言われなかっただろうけどね。


 でも、どうであれ、それ腐ってしまったら、ただのラッキーボーイで終わっていた。

 ここで得たチャンスを自分で活かしきったから、そのあとの彼の成功があったのだろう。


 
 過程はどうでも獲ったんだもんね。

 自信を持って進めば、それまでの努力もあり、大きな花を咲かせるケースもある。


 しかし、彼がメダルを獲った後 do a Bradbury=思いがけない幸運 という言葉ができたことが皮肉だ。

進学率は?だが、敬虔な仏教徒なタイの学生

2012-08-20 13:00:00 | ニュース
 タイって95%は仏教が普及してる。(残りはイスラム教、キリスト教、ヒンドゥー教、シーク教)

 元々学校がお寺の敷地内に立っていて、僧侶が学校の先生になる所から始まる。
 だから学校に入るのは、靴を脱いで、普段、地面などに座るのは女の子でスカートであっても胡坐で当たり前。
 お寺と思えば不自然な格好ではないのですが、スカートが身近めになっているので…止めた方が…という気もします。


 とりあえず宗教で心身を整えながら勉強をする。


 しかし、進学率はけして高いと言えない。しちゃったら超エリートです。
 日本のようにパートをすることがなく、勉学一筋。というより失業率が高いので、学生にまで回ってこないそうです。

 特に大学進学となると60科目のいつかの科目を選び覚えなくてはならない。
 大変な努力と言えるかもしれない。

 しかし、識字率が今は95%と高いが1960年代まではほとんど字も読めないことも普通だったらしい。95%は世界的水準としては高く(日本もこれに入る)アジアの中でも高いということだ。

 ということは…とふと、思っちゃうんだけど…。

 外国語を覚えようとしてること自体が、凄いことなのかしら?……って全然覚えられてない。



 でも僧侶の地位が高いようで、女性は絶対僧侶の身体に障ってはいけないんだって。地位が高いというより、尊敬の念が高いということのようだ。


 これは外国人でも同じであり、礼儀作法は国宝で規定されているようだ。

 いまでもワイと呼ばれる合唱をするが、これも階級に寄って細かく分かれているようだ。違う身分年だと違うワイの作法が求められる。


 でもこれはあくまで都市部の子ども限ったことであり、農村部に行けば、高校進学率が危ういくらいらしい。

 だから大学行けちゃうのは凄いことなのである。

 これで、大学院に行く例もあるらしいが…日本じゃ比べ物にならないほどのエリートであり、家もそれだけの地位にあるんだろうな。



 同じアジアでも違うのだよね。