kouheiのへそ曲がり日記

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要領のいいエゴイスト(30)

2015-05-10 04:31:52 | 日記
この議論は、過度の集団本位主義を別とすれば、主に<集合表象>の拘束の欠如によって個人の内面の空しさが引き起こされるとするデュルケームの観点とはまったく対照的に、いわば<集合表象>の拘束性の過剰によって個人の精神生活の貧しさがもたらされる――権力の問題として定式化されているわけではないが――という捉え方であるといえよう。

だが、この対照性は前述の「個人」概念の形式的対照性にもとづいており、デュルケームとジンメル双方の「個人」概念の総合という作業が可能あるいは実現すれば、対照性としてではなく、構造論的な関連性として再定式化することができると思われる。

そしてそのことは、哲学者として以外には形式社会学の研究者として自らを定位したジンメルはひとまず措くとしても、すくなくともデュルケームの社会理論の理解や生産的解釈にとって非常に有益かつ意義深いこととなろう。
とりあえずここで暫定的に提言できると筆者が考えることは、<集合表象>の構造論的観点およびその拘束性への権力論的観点導入がその予備作業になるだろうということである。
 
これまでの考察からいえることは、「<集合表象>が個人を拘束する」というデュルケームの社会理論の基本命題を、近年の社会問題の一つである社会的、経済的、政治的権力による「管理」の問題とパラレルに捉えることは適切でないということである。

つまり、そういう「管理」の正当性をデュルケームの学説はけっして一義的に証明しはしないのである。
<集合表象>の拘束性は利己主義的傾向に対してのものであり、そのかぎりで規範的秩序維持の機能をもつ。
だが、従来の規範と対立する新しく登場してきた価値思想を内面化した agent としての個人の属性として主体性を規定するのであれば、<集合表象>は必ずしもそれを抑圧しはしない。

むしろ、「昨日の理想と今日のそれとの相克(宗教生活の原初形態)」というデュルケームの視角を理論的に整理し、前述のように、諸々の「限定的<集合表象>」間の拮抗として構造論的に捉えるのであれば、<集合表象>の拘束性と個人の主体性とを同一の理論平面上で扱うことが可能となろう。

すなわち、ある<集合表象>に拘束された個人が権力に対抗する主体性をもつということは、その<集合表象>が権力主体を拘束している<集合表象>と拮抗するものであるならば、けっして矛盾ではないのである。――1989年9月提出(つづく)