kouheiのへそ曲がり日記

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要領のいいエゴイスト(24)

2015-05-04 05:10:36 | 日記
だが、それではいったい「魂」とは、それを中核とする主体とはどのように成立するものであるのか。
これが後者の問題であるが、ジンメルの論述をみると、自己を対象化する主体の作用とパラレルに、客体が自己の主体を明確に際立たせるような、いわば反作用があると捉えられているといえる。

制度化された文化を自己の内面にとりいれてこそ、主体の作用にリズムと方向性が付与され、そのことによってより高次の主体と客体との統一、けっして完全なものではありえないとはいえ、人格統一が可能となる。

本稿の文脈でとくに興味深いのは、次の論述である。すなわち、

 実際、空間的に自然のままの諸表象が、よどみない意識過程の内部でまったく形式の固定したものにとどまろうとする不気味さ
 を――それらの表象が客観的に外面的な世界にたいするその関係においてこの安定さを正当化することによって――和らげるよ
 うに、精神的世界の客観性は、それにふさわしい仕事をおこなうものである。
 われわれの感じるところでは、われわれの思考がまったく生き生きしているということは、論理的諸規範 が不動であることに結び
 ついており、われわれの行為がまったく自発的であるということは、道徳的諸規範に結びついている(傍線筆者)

という論述である。

自己の内部にとりいれられた制度化された精神的形象=客体という「宿駅」を経なければ、主体の作用は無限定的で拡散的であり、主体の奔放な作用が同時に客体の内容の豊饒と深化とをもたらすような天才でないかぎり、客体こそが主体の作用を意義あるものとする。

しかし、このことは、客体が主体を規制することを意味するのではない。
なぜなら、客体はあくまでも主体の完成へ至る道程の「宿駅」にすぎないからだ。

ここに、デュルケームの社会理論の根本問題を浮き彫りにする鍵が示されている。
個人的存在が一義的に利己的・欲望追求的なものであるとすれば、社会的存在を認知するだけにとどまらず、これを尊重し、かつ愛する主体は具体的実体としての個人の精神構造の、いったいどこに位置づけられようか。

やはり、デュルケームの学説理解にとって、人間性の二元論的観点は不十分なものであるといわざるをえない。
ジンメルの学説における情念放射する主体としての「魂」に対応するものを措定しなければ、個人が規範にしたがう際の自発性すなわち道徳性は十全に説明できない。

もちろん、全体社会的なレベルでは、すくなくとも観察者の観点からは、規範の正当性はその規範が民衆の社会生活にとって機能的 functional であるか否かという基準によって判断できる。
だが、行為者の観点からは、つねに彼が規範の正当性をその機能によって判断するわけではなかろうし、また個人的存在が利己的・欲望追求的なものでしかないかぎり、その判断の主体がなんであるのかを説明するための概念装置がデュルケームの学説には欠落している。(つづく)
コメント
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