kouheiのへそ曲がり日記

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

切実な声

2004-09-30 06:32:00 | 日記
あれは、僕が埼玉県に住んでいた頃のことだ。
僕はたしか、小学校2・3年生ぐらいだったと思う。
僕の家から、長くて細い急峻な坂道を登りきった所に、大きな団地があった。

夏だったと思う。
僕は、その団地の公園に遊びに行った。
すると、不意に一人のおばさんが僕の前にしゃがみこんだ。
お菓子のたくさん入った袋を僕に手渡し、

「これ、もらってちょうだいね」

とおっしゃった。

僕は、鳩が豆鉄砲食らったような顔をしたに違いない。
覚えていないが、僕は礼も言わなかったと思う。
あんなに切実な声で大人から話しかけられたのは、それが初めてだったからだ。

たぶん、お葬式があったのだろう。
なぜか、ふとそのことを思い出した。
心地よいノスタルジーとして・・・。

なぜ心地いいのか、自分なりに考えてみると、こういうことだと思う。
つまり、その時僕は生まれて初めて、一人の「人格」として扱われたのだ。

今でこそ、子供の権利条約だのへったくれだのと言っているが、その頃子供なんて、紙屑以下に扱われていたのだ。

「これ、もらってちょうだいね」

あの時、僕は初めて一個の独立した「人格」として観てもらったのだ。
学年でトップの成績をおさめたときも、県の美術コンクールで金賞をとったときも、僕はさほど嬉しくなかった。
教師連中から子供扱いされたからだ。

「これ、もらってちょうだいね」

あの切実な大人の声が忘れられない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マルセル・デュシャン

2004-09-29 06:03:00 | 日記
僕はマルセル・デュシャンが大好きだ。
なぜなら彼が、芸術権威主義を徹底的に踏みにじったからだ。

1917年、彼はニューヨークのアンデパンダン展に「泉」という題名の作品を出品した。
だが、「反道徳的」という理由で、彼は出品を拒否された。

デュシャンが出品したのは、R.Muttと署名だけがなされ、それ以外一切手を加えられていないマット社製の便器だったのだ。

彼は、このように反論している。

「手でつくったかどうかは問題ではない、日用品をとりあげ、新しいタイトルと視点によってその有用性が失われるようにそれを置いたのだ――つまり物体に対する新しい思考を創造したのだ」と。

またデュシャンの作品には、レオナルド=ダ=ビンチのモナリザの複製に髭を描き込み、L・H・O・O・Qと記しただけのものもある。
このアルファベットを続けて読むと[Elle a chaud au cul(彼女のお尻は熱い)]となる。

芸術なんて、たいそうなものではないのだ。
それを追い求め、泣きながら絶叫しているうちは、決して芸術に辿り着くことはできない。

僕のコンプレックスなのかもしれないが、僕は荘重なもの、荘厳な雰囲気のものがどうも嫌いだ。
どんなに美人でスタイルがよくても、花嫁衣裳を着た女性に魅力を感じたことがない。
Tシャツにジーパンかミニスカート、女の子はこれに限る(笑)。

高校時代、僕がデュシャンの作品の写真集を見ていると、Tが言った。

「美術って美しくなければいけないじゃないの?こんなのどこが美しいんだ?」と。

常識という眼に見えない鎖にがんじがらめにされたクサレ脳の持ち主め!
お前なんかに芸術は分かりはしない、未来永劫に。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間・社会についての日常意識と科学

2004-09-28 06:20:00 | 日記
あれは僕が、ある専門学校の講師をしていたときのことだ。
僕が社会学の授業で熱弁をふるっていると、一人の生意気そうな若者が、こう言った。

「先生、そんな細かいことばかり考えていて情けなくないですか?」

日本という国では、小学校から高校まで、学問の何たるかを教えていない。
だからこそ、このような発言が飛び出すのだ。

生理学だろうと、電子工学だろうと、日頃重箱の隅を爪楊枝でつつくような研究が行われている。
そういう細かい研究が積み重なっていき、ある日突然、従来の枠組みを取っ払ってしまうような大発見がなされるのだ。

そうすると、今まではこういう見方でものごとを観てきたが、これからはこういう見方で観ないといけないという科学革命がおこる。
これを「パラダイムの転換」という。

だが、生理学や電子工学の分野でいくら細かいことを考えようと、誰も「情けない」などとは言わない。
なぜなら専門家以外、誰もそんなことを考えて生きていないからだ。

ところが社会や人間については、皆何かしら考えている。
子供だろうと、青年であろうと、中年であろうと、老人であろうと。
賢い人間であろうと、アホであろうと。
なぜなら社会や人間について何も考えなければ、生きていけないからだ。

「いちいち細かいことを気にしていたら元気に生きていけない」という集合表象に拘束されているからこそ、あの生意気な学生は僕にあのように言ったのだ。

たしかに人文・社会科学理論の厳密性は、日常生活においては、あまり役に立たない。
日常生活を送るには、ある程度の適当さが不可欠なのである。
歯車も、ある程度の遊びがないと動かない。

だが、よく覚えていて欲しい。
社会・人文科学的理論は哲学ではない。
もちろん処世術とも違う。
「科学」であるからには、重箱の隅を爪楊枝でつつくような細かいことも考えざるをえないのである。

「文化」=(社会のメンバーに共通な感得・思惟・行動の様式)が発見されたのは、わずか百年前のことなのだ。
誰もが社会や人間については自分なりの考えをもっているが、それが科学的理論となるためには、何年もの月日をかけた科学訓練が必要なのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

実在の非経験的側面に対する能動的態度

2004-09-27 11:11:00 | 日記
皆さんは、古代インドの世界観をご存知だろうか?
地面と海がお盆のような形をしていて、その下の四隅を象が支えており、そのまた下を巨大な亀が支えているというものだ。

老人は、経験の重要性を若者に説くが、人間は経験によってのみ物事を知るのではない。
経験によって知ることは、とくに個人にとっては矮小なものでしかない。

たしかに人間が全宇宙を経験によって把握することなど、実際問題として不可能だ。
しかし人間は、全宇宙を認識しないと(認識しているつもりにならないと)不安でしょうがないのだ。

この宇宙はこうなっていて、自分はここに位置している、そして宇宙と私はこのような関係で結ばれている、と言語の概念把握能力を使って確信することによって、人間は動物のようなおびえの時間の連続から開放され、安心の日常生活を送ることができるのだ。

これが、いわゆる実在の非経験的側面に対する能動的態度と言われるものだ。
この態度は、全人類に普遍的なものだ。
その証拠に、どんなアルカイック(古制的)な宗教にでも、世界観・宇宙論は必ず存在する。
科学などなかった数百万年前から・・・。

我々に今必要なのは、全人類が共有できる世界観を構築することであろう。
現代は、世界が地球儀的連続体として見える時代だ。
いまさら自国の歴史にこだわったりするのは、時代錯誤としか言いようがない。

何かというと日本の侵略を怒りとともに持ち出す中国や韓国の方々にもうんざりだが、自虐史観をやめようということで活動しておられる学者の方々にもうんざりだ。

人類が普遍的に有している実在の非経験的側面に対する能動的態度で、想像力を宇宙の果てまで飛翔させよう。
国のことなんか、政治屋にまかせておけばいい。
敵のいない世界など信じられなくなっている政治屋どもに。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分のことを賢いと思っているアホ

2004-09-26 10:41:00 | 日記
僕は、賢い人間が好きだ。
かといってアホが嫌いかというと、そうでもない。
自分のことを分かっているアホは、必ずしも嫌いではない。

僕が嫌いなのは、自分のことを賢いと思っているアホだ。

22歳のとき教育実習に行ったのだが、その最終日、実習生全員による反省会が開かれた。
そこで僕は盛んに「知識の詰め込みは教育ではない、もっと人間教育に重点を置いていかなくてはならない」と主張した。

すると、青白い顔をした男が、人をバカにしきったような声で発言した。

「社会科の実習生の方々はご立派なことをおっしゃっていますが、現実には大学受験というものがあるんです、我々は一人でも多くの生徒を大学に入れなきゃいけないんです」

つまり、人間教育などしている暇はない、そんなのは青臭く非現実的な理想論に過ぎないと言いたかったらしい。

僕は校長に訊ねた。

「今、大学への進学率はどれくらいですか?」

校長は答えた。

「40%弱です」

僕は続けた。

「ということは、60%強の高校生は大学に進学しないんですね」

僕は青白い男に向かってたたみかけた。

「じゃぁお前が仮に、だれも大学に進学しない高校の教師になったらどうするんだ? お前らのような進学しない連中は勉強なんかしなくてもいいんだ、落第しない程度の点さえ取ってればいいんじゃ、と放っておくのか? もしお前が在校生の半分が進学希望で、残りの半分は就職希望の高校の先生だったらどうするんだ? 進学希望者には一所懸命に勉強教えて、就職組にはお前らなんか勉強しなくていいんじゃ!赤点とって落第さえしないようにしとったらいいんじゃ!とでも言うのか!?」

青白い男は、立ち上がってこう答えた。

「・・・分かりました」

僕はなおもたたみかけた。

「何が分かったんだ? 自分が自分のことを賢いと思ってるアホだということが分かったということか?」

青白い男は反射的に「そうじゃない!」と喚いた。

僕ははらわたが煮え繰り返っていた。

「じゃ何が分かったんだ! お前今、分かりましたと言ったではないか!」

自分のことを賢いと思っている若者に、往々にして観られる心理現象であるが、「青臭い理想論なんて現実の壁の前では無力なものなのだ」と考えることによって、「私って何て賢いんだろ、大人なんだろ」と自己陶酔する奴がいるのだ。

こういう奴が教師になるから、日本はダメなんだ。
教師不適格者は、教育委員会が公式に把握しているだけでも、全国に何千人といるらしい。

とにかく、若いうちに理想に燃えないような奴は、教師になったらいかんのであーる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする