kouheiのへそ曲がり日記

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要領のいいエゴイスト(28)

2015-05-08 05:03:01 | 日記
だが、個人的存在が利己的・欲望追求的なものでしかないのなら、こうした「限定的<集合表象>」の多様性を、いかに説明すべきであろうか。
筆者には、デュルケームの「個人」概念から、この問題に関する十全な説明を導きだすことは困難であるように思われる。

ここでも、先にみたジンメルの「個人」概念が糸口を提供してくれるとはいえないだろうか。
やはり、個人の「主体」という概念装置を設けることが必要であろう。

というのも、なにも社会秩序の動揺は、エゴイズムやアノミーの蔓延という視角によって語りつくされるわけではなく、それが個人によって主体的に選択された諸価値の拮抗にもとづく場合もありうることは容易に想像できるからである。

さらに、デュルケームにとって重大な問題であった近代社会における個人の内面の空しさは、個人に対する<集合表象>の拘束性の欠如ばかりではなく、いわばその過剰に起因する場合がありうることを、すなわち個人がその正当性を認めてはいないのに、さまざまな権力の作用によって強制されるという意味での「拘束性」が存在することを、すくなくとも現代の我々は認めなければならない。これらの問題を敷衍するためには、ジンメルの「文化」論に目を転ずることが有効であるように思われる。

ジンメルは文化的形成について次のように論じている。すなわち、

  木のように硬くて味わえぬ木の実が園芸家の丹精によって、果物となったときには、われわれはこれを栽培したという。
  あるいはまた、この野生の樹木は果樹に栽培されたという。
  これに反して、おそらく同じ樹木から帆柱がつくられ、それによってこの樹木に少なからざる目的営為がおこなわれるばあいに
  は、われわれは、樹幹が帆柱に栽培されたとはけっしていわない。
 (中略)果実は、人間の骨折りがなければ、まずできないであろうが、けっきょく樹木に固有の成長力から生じ、また樹木の素質
  自身のうちに予示される可能性を充たすにすぎない。
  これに反し帆柱のばあいには、樹幹に、自己自身にはまったく縁もゆかりもない目的体系から自己自身の本質傾向内に何ら
  素質的構造もない帆柱の形がつけ加えられる。
  まさにこの意味において、人間のもつありとあらゆる可能な知識、老練さおよび洗練さがいわば、自己自身の人格にたいして、
  これに外的な、けっきょくは外面的なもの以上に出ない価値領域から生ずる付加物としてのみ働くばあいには、これらのものは
  人間に真の開化を与えるということができない。
  かようなばあいには、人間は、なるほど開化をもつが、しかし開化されてはいない。
  そして後者[人間が開化されていること]があらわれるのは、超人格的なものから取り上げられた諸内容が予定調和によって
  のように、心(=魂)自体のうちに心に最も固有な動力としてまた心の主観的完成の内的予示として存するもののみを心の
  なかで展開するようにみえるばあいだけに限られる

と。(つづく)