kouheiのへそ曲がり日記

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

要領のいいエゴイスト(29)

2015-05-09 04:56:15 | 日記
要するに、ジンメルの見解では、文化的形成とは事物や人間の固有の「本質」を人為的に開示し、発展させることである。

このことに関して、本稿の文脈上非常に興味深い点があるといえるが、それは、デュルケームの学説における社会化socialization についての視角と先に引用したジンメルの見解とが、きわめて対照的であり、ほとんど重なり合う面がないとさえみえることである。

デュルケームのいう個人的存在には、潜在的可能性としてさえ、社会的人間性として発展しうるいかなる要素も含まれていない。
したがって人間を人間たらしめるものは社会的存在であり、これはあらかじめ生物有機体としての個々人には与えられていないものであるから、これを個々の人間の意識内部に形成することが社会化であり、教育の究極目的であるといわれた。

だがこのことは、ジンメルの捉え方では「開化をもつ」ことにすぎず、「開化された」すなわち文化的に形成されたことにはならない。
まったくもってジンメルとデュルケームの社会化あるいは文化的形成に関する視角は、永遠の平行線をたどるかのようにみえる。

しかしながら、先にもふれたが、デュルケームのいう<集合表象>の拘束性とは、義務とそれのみならず善(望ましきもの)という道徳性を構成する二つの主要要素を前提としたもの、すなわち拘束されるべき個人が<集合表象>を尊重しかつ愛するという、当人の思惟および行為の自発性を前提として含意したものであることから、一概にジンメルとデュルケーム両者の見解を総合することが不可能であるとはいえないように思われる。

また、現実の社会生活と照合してみると、判断主体によって肯定的存在であったり否定的存在であったりするだろうが、ジンメルのいう「開化され」てはおらず、「開化をもつ」にすぎない人間という捉え方にもリアリティーがあることは否めない。

であるから、もちろんその総合の作業はきわめて困難であろうが、しかし双方の社会化に関する見解がそれぞれ示唆に富んでいると同時に限定的な一面性をも有しているとみなされるかぎり、それは有意義な作業だといえよう。

ともあれ、ジンメルの文化的形成についての視点は、彼が「文化の悲劇」と呼ぶ、いわば文化的疎外論とでもいうべき議論に連接する。

すなわち、諸個人の心的相互作用によって成立する文化世界は、やがて客観化し、その成立に与った諸個人の主体から独立した形象となる。
とりわけ近代社会においては、分業の発達にもとづいて文化世界の構造は複雑になり、それと同時に文化世界形成への個人の関与度が低下する。

そのことによって文化が生すなわち主体の核をなす魂の不断の作用過程にとっての桎梏へと転化する。(つづく)