kouheiのへそ曲がり日記

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要領のいいエゴイスト(23)

2015-05-03 05:09:54 | 日記
主体とは、感得の根本的カテゴリーとしての魂 Seele であり、対象へ情念放射(信頼・憧憬など)する魂であり、それはまた知的探求をし、かつ世界内諸存在を価値序列化するものである。

これに対し客体とは、主体の作用によって対象化された自己であり、結果的に演じている社会的役割など、魂にとって外的でありながら内面化された文化形象――デュルケームのいう社会的存在と対応する概念といって差し支えなかろう――を指している。
つまり、主体の核をなす魂にとって外的なものが前提とされているわけである。

ジンメルにとっては、自己分離された主体と客体との相克から、より高次の自我統一を獲得していく不断の心的努力の過程こそが人間の人間たる所以である。

ただし、「魂の救いについて Von Heil der Seele」などの宗教哲学的論文においてとくに強調されたことであるが、そのことは主体と客体との総合としてのみならず、魂の純化としても捉えられており、むしろこの後者においてこそ個性の発揮・自由の謳歌があるのであり、また生 Leben の高揚があるとされる。

ここで、少なくとも二つの疑問が浮かんでこよう。すなわち、

 ①利己主義の捉え方の問題
 ②「魂」の社会的形成の問題

以上の問題である。

前者の問題については、ジンメル自身の解答がある。
すなわち、利己主義的行為とは、魂がそれに外的なものを、いわば道徳中立的計算にもとづいて利用することであり、魂の純化は利己主義とは無縁のものである。
つまり純化された魂とは、それに外的ななにものをも利己的な目的のための手段とはしないのであって、デュルケームのいう人間的自然としての個人的存在とは別物なのである。(つづく)