kouheiのへそ曲がり日記

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怨憎会苦

2006-11-29 16:41:00 | 日記
おんぞうえく、と読む。
嫌な奴と出会わねばならないのは、どうしようもないことだ、という意味である。

僕にもある、怨憎会苦が・・・。

Nさえいなければ、僕の人生は今と大きく異なっていたことであろう。
Nさえ、Nさえいなければ・・・Nが違う専攻を選択していれば・・・。

いやいや、いまさらそんなことを言い続けたって一文にもならない。
釈尊の時代から、否、人類がこの世に現れた頃から怨憎会苦はあるのである。
嫌な奴と出会うのは避けられないことなのだ。

よ~く思い出してみよう。
ほらほら、いい奴にもたくさん出会ってきたではないか!
いい奴がいれば、嫌な奴もいるのは理の当然である。

おそらく潜在意識に「憎むことは悪いこと」という方程式があるからいけないのだ。
憎けりゃ憎めばいい。
論語にも『子曰(いわ)く、惟(た)だ仁者のみ能(よ)く人を好み、能く人を悪(にく)む(里仁3)』とある。

孔子は「愛すべき人を愛し、憎むべき人を憎むのが最高の人格者だ」と述べているのである。

ただ・・・問題は憎み方である。
自分や他人を傷つけるような憎み方をしてはいけない。
kouheiがあんなに憎んでいるのだから、Nって人はよほど酷い人なんだろうね、と言われるようにならなければならない。

・・・そのためにも自分の人格の陶冶に努めなくてはね・・・ふぅ、しんどいけどがんばろ(微苦笑)

理想の女体

2006-11-26 17:59:00 | 日記
う~ん、ようつべで何回も何回もビデオをくりかえし観たが・・・身長160・B88(Gカップ)・W58・H84・・・というこの身体は・・・僕にとっての女体の理想型ではなかろうか?

仏教には莫妄想(まくもうぞう)という言葉があり、これは「くだらない妄想をするな」という意味であるが、この女体を観ているとあらぬ妄想が次々と膨らんでくる。

どういう男がこのような肉体を好きにできる権利を得ているのだろう・・・?
ジェラシーというとちょっと違う気もするが、何かそんなような心持である。

だが、不謹慎と後ろ指を差すことなかれ。
僕はもう48歳、性に関することだけについても、幼い頃より様々な経験を積んでおり、妄想と現実の確固たる区別はしっかりとできている。

とはいえ・・・今の若い者を羨む気持はほとんどないし、若くなりたいともさほど思わないが、こと「性」の問題に関する限り、「若さ」を強く願わずにはいられない。

より正確に言うと、精神は現在の状態で、肉体だけティーン・エイジャーになりたいのである。

・・・いかん、いかん!莫妄想、莫妄想!(笑)

だが、現実と混同しない自信があれば、妄想するのもまた良しであろう。

教育ママゴンはエロティックなものを目の敵にするが、エロティシズムそのものは下品だとも不粋だとも思わないがなぁ・・・。

とにかく健康な肉体は素晴らしいちゅうことですわ(爆)

日本の伝統・文化の尊重・・・?

2006-11-18 14:41:00 | 日記
日本人はホントにバカだ。
あんな郵政民営化などというどうでもいいことの祭りに踊らされて、自民党をあれだけ勝たせ、ついに教育基本法が改悪されてしまった。

県知事の談合事件、タウンミーティングでのやらせ問題、学校におけるいじめと自殺・・・これらはまさに日本的な、あまりに日本的な文化だ。

改悪教育基本法が成立したら、談合ややらせ、そしていじめは尊重しなければならなくなる。
なぜなら、それらが非常に日本的な文化だからである。

水面下の根回しですべてが決まり、会議当日、入札当日、選挙当日にはすでに結果が決まっている、これこそが日本の伝統的文化なのである!

そして、いじめ・・・皆さんは旧日本軍の味方に対するいじめをご存知でしょ?
仲間内集団内部でのいじめこそは、日本的な伝統文化である!

教育基本法改悪を許した日本人どもよ、あんたらに談合を糾弾する資格はない。
あんたらは、やらせもいじめも是認したのだ。
自分の子供が自殺しても、文句を言う資格は、少なくとも自公の党員にはない。

・・・こんな国、誰が愛せるか!?

ディレンマ

2006-11-14 15:47:00 | 日記
故H教授が僕のプライバシーを盗撮・盗聴によって侵そうと決意したのは、僕が次のように言ったからだ、すなわち、

「僕は神によって選ばれた芸術家ですよ、それが芸術のげの字も分からない根性の卑しい低俗な凡人である、おべっか使いのNらと同等というのはどういうことですか?」・・・と。

そのとき故H教授は、何か生まれて初めて見る不可思議なものを目の前にしているような表情をしていた。

だが、僕を病蹟学のモルモットにしていたK大学の連中の結論はこうだった、

「kouheiは、化け物だ!」

であるから、当然次のような見解が出てきたわけである、

「ちょっと待ってください、我々は自分が普通だと思っているからkouhei君を『化け物だ』と言っているわけでしょ?kouhei君は自分が普通だと思っているから我々のことが『人間の容をした猿』にしか見えないのだから、どちらを普通の基準とするかで我々とkouhei君は異なっているだけで、我々とkouhei君はまったく別次元に生きているという点においては、我々とkouhei君の意見は一致しているのではありませんか?」

僕に濡れ衣を着せたNやO助教授、僕のプライバシーを侵害した故H教授らを僕が許したのは、僕が「芸術家」であり、下等動物に対して何らかの感情をもつことさえクダラナイと考えたからであった。

しかし仏教の教えに目覚めた最近の僕は、僕とNもO助教授も故H教授も、一列平等であると思っている。

平等であるなら、彼らを許すためにはそれ相応の償いをしてもらわねばならぬ。
僕のプライバシーを侵害していた奴らは誰一人責任を取っていないのである。

誰一人償いをしないのなら「僕は特別だ!」を是としてもらわねば困る。
「僕は特別だ!」を決して許さないというなら、冤罪によって僕を陵辱したことについて、皆に命をもって償いをしてもらわねばならない。

さて僕は「特別」なのか「同列」なのか?

『シッダールタ』

2006-11-06 14:37:00 | 日記
この作品は・・・小説ではない。
では、何と言うべきか・・・?

この作品を敢えてジャンル分けしたとするならば、やはり非常に長い「詩」だとしか言いようがないであろう。

西洋人にも仏教のエッセンスがこれほど理解できるのだから、西洋とは違う「東洋的な」心情などという言い方は、根性の卑しい臆病者の(分離主義者の)世迷言というべきであろう。

言語で形作られている世界ではあるが、何にも譬えようがないほど美しい。
ドイツ語を日本語に翻訳するという余分な一手間が加えられているにもかかわらず、本当に美しい。

やはり僕の思ったとおりだ、少なくともヘッセと僕の意見は同じである。
釈尊は「愛」を表面上は否定しているようだが、決してそんなことはない。

それは単なる言葉上の問題に過ぎない。

イエスと同様、釈尊も「愛」を祈っているのである。
その名は・・・「慈悲」である。

「愛」のない教えが、何千年も受け継がれるはずはないもんな(微笑)