kouheiのへそ曲がり日記

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開化をもつことと開化されていること

2005-04-30 06:51:00 | 日記
野生の梨の木は、固くて味わえぬ酸っぱい実をつける。
これを園芸家が丹精をこめて、甘くておいしい食用の梨の実に栽培する。

これに対して、同じ梨の木から帆柱が作られた場合は、これを栽培したとは決して言わない。

両者の違いは何か。

つまり、前者の場合は人の手が加わっているとはいえ、結局梨の木が本来もっている自然の可能性を展開させたのである。

しかし後者の場合は、梨の木の本性には縁もゆかりもない目的体系から帆柱の形が付け加えられたにすぎないのだ。

これが人間の場合はどうか。

人間は、一人一人それぞれに、生まれながら魂を有している。
魂の本来の傾向にそって教育が施された場合、彼は文化的に開化されたといえるのだ。

これに対して、魂の本来の傾向とは無縁の目的体系から教育がなされ、彼の意識内部に知識なり道徳意識なりが植え付けられた場合、彼はなるほど開化をもつが、文化的に開化されてはいない。

日本の戦後教育においては、平等の強迫観念により魂の個性は無視され、開化されてはおらず、開化をもつにすぎない人間が大量生産されてしまった。

我々の課題は、自らの、そして未来を担う子供たちの魂の本来の傾向を見極め、一人一人の魂の自然的可能性を展開させる教育方法を見出すことだと思われる。
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美しさに感動すること

2005-04-29 09:35:00 | 日記
文化の一側面に、感覚的受容が容易か困難かという判断基準がある。
奇麗なものは感覚的受容が容易であり、醜いものは困難である。
奇麗なものは気持ちよく、醜いものは気持ち悪いのだ。

では美しさとは、一体どのようなものであるのか。
それは、感覚的受容が困難であり、不愉快なものなのだ。
醜悪美という言葉も、立派に存在する。
つまり「奇麗」と「美しい」は反対概念なのである。

ちょっとした奇麗なものを目にしたとき、我々は「ああ、いいなぁ」とか「あらいいわね」等と気軽に言う。
だが、本当に美しいものを鑑賞するとき、我々はむしろ辛い思いをする。

なぜなら本当に美しいものは、我々の日常的小賢しさ、卑しさを嘲笑うかのように迫ってくるからだ。
美しいものを鑑賞すること、それは精一杯の背伸びを強要されることなのだ。

鑑賞者が精一杯背伸びをし、身体の、そして心のアンテナをめいっぱい広げても、美しいものとの距離は、なかなか縮まらない。
偉大な自然や偉大な作者が魂の全てをかけて産み出した作品、それは簡単には受容できない重苦しさを孕んでいる。

奇麗なものは、べったりと日常に寄りかかったままでも気持ちよくさせてくれるが、本当に美しいものは、高潔な魂の持ち主だけに感動することを許すのである。
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儀式嫌い

2005-04-28 09:03:00 | 日記
僕の大学院時代の先輩で、魂の美しさよりも、形式の美しさに美的感動を覚える人がいた。
「とにかく、式次第がきっちりと、粛々と進行していったんだ、ほんとにいい式だった」
ある結婚式の2次会で、彼は興奮気味に話していた。

結婚式とは、男女の性的結合という何となく後ろめたいものを、無難なものとして社会に宣言する儀式である。
葬式は、突然死体という形而下のものに堕してしまった「人」を、生きていたときと同じか、あるいはそれ以上の「人格」として扱う儀式である。

僕は、自分でも不思議に思うほど、生まれつき儀式が嫌いだ。
ドストエフスキーの作品の登場人物のように、あらゆる約束事や儀式を踏みにじり、ひたすら破滅へと疾走していく方が、何よりも美しい魂の昂揚と僕の目には映る。

だが卑しい魂の持ち主は、儀式を重要視する。
なぜなら、皆が儀式という同じ形式の枠に嵌められれば、自らの魂の卑しさが覆い隠されるからである。

とはいっても、どうしても義理で結婚式や葬式に出席しなければならない場合もあるだろう。
その時は、二つの魂が一つに寄り添う美しさに拍手をし、死せる魂がこの世を去っていく切なさを感じて涙するのがいい。

形式美に惹かれる心情の行き着く先、それは想像力の死である。
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地球の自転

2005-04-27 10:19:00 | 日記
先のスマトラ島沖地震で若干速まったそうだが、地球の自転速度は、一般的な傾向としては、100年に1.7ミリ秒ずつ遅くなっているという。
50億年後には、地球の自転は停止するらしい。

すると、どうなるのだろうか?
夏は太陽が出っぱなし、冬はずっと夜のまま、春と秋は夕方が延々と続くことになるのか?

いやいや、心配御無用。
そもそも50億年後には、太陽自体がその寿命を終えるから、地球の自転が止まろうと止まるまいと関係ないのである。

これはいわば、「永遠の愛」が成り立たないことの証明である。
まぁ、50億年といえば、個人にとっては「永遠」にも等しい時間だとも言えるかもしれないけれど・・・。

でもご安心あれ、100万年後には確実に人類は滅亡するそうだから(笑)
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少欲知足

2005-04-26 10:55:00 | 日記
我々人間の欲望は二種類ある。
一方は一定の基準が満たされれば満足に至るものであり、他方は決して満足に至らぬ底なし沼のような欲望である。

腹が減ったら飯を食いたくなる。
そして飯を食えば、個人差はあるが、いずれ満足に至る。

だが、「よりおいしいものを食べたい」という欲望には限界がない。
限界がない欲望は、当然決して満たされるものではないから、我々は満足を知らず、苦悩することになる。

現代の科学技術は、無限の欲望を刺激する、いわば悪魔の囁きのようなものだ。
現代日本人がこれだけ豊かな社会に暮らしていながら、決して幸福感を覚えられないのも、その辺に秘密があるのだろう。

何につけ、「ほどほど」がいいのである。
心の修練を積み、「ほどほど」で満足できるようにしておき、我々日本人がいかに恵まれているかグローバルな視点で反省できれば、もっと幸せになれるはずである。

少欲知足、ここにこそ心の平安への鍵がある。
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