kouheiのへそ曲がり日記

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誤訳

2012-02-28 15:04:11 | 日記
僕は若い頃、日本の悪口を言うのが大好きだった。
「欧米ではこうなのに、日本ではこうだ、まったく嘆かわしいことだ」・・・等々と。

たとえば「日本人はエコノミック・アニマルだ」という外国人の評価を耳にしては、「まったくその通り、日本人は金儲けのことしか考えない獣だ、ホント日本は文化後進国だ」などと言い募っていた。

そしてまた、日本人はウサギ小屋に住んでいるという報告書がでると、「そうそうその通り、日本の生活環境は最低だ!」などと嘆息したものだった。

だが・・・僕は間違っていた。
「エコノミック・アニマル」や「ウサギ小屋」は誤訳だったのである。

ウィンストン・チャーチルというイギリスの有名な政治家がいたが、彼のことを評して、「チャーチルはポリティカル・アニマル(直訳すれば政治的動物)だ」という言い回しがあるらしい。
もちろん侮辱する意味合いはない。
「政治が得意な人間」というほどの意味らしい。

「エコノミック・アニマル」もネイティヴな英語話者に何度も聴いてもらって感想を訊ねると、侮蔑の意味はないと答えるそうな。
単に「経済活動に秀でた連中」という意味なんだそうである。
仏教学者のひろ・さちや氏はその著書で何度も「エコノミック・アニマル」を連発し、日本人の心の有り様を揶揄していたが、最近は間違いに気づいたのかあまり言わなくなったようだ。

ウサギ小屋も、英語の報告書にrabbit hutchとあるから言われはじめたそうだが、これは仏語のcage a lapinの直訳なのだ(cageは檻、lapinはウサギ)。
実際はcage a lapinとは、画一的な都市型集合住宅のことらしい。
翻訳者が仏語にあまり精通してない人だったのだ。

「ウサギ小屋」はおかしいとは思っていたのだ。
キューブリックの『時計じかけのオレンジ』に出てくる英国の住宅はホントに狭いもの。

とにかく懺悔する。
勉強もしないで、誤訳にも気づかず、日本の悪口を言っていた自分は愚かだった。

だが、これだけは言える、すなわちネトウヨと呼ばれるような、若いうちから右的な奴らは病んでいるのだ。
若い頃左気味で、歳をとるにつれだんだんと右的になっていくというのが、精神の発達という観点からすると、健全なのである(合掌)

表現の自由

2012-02-27 09:43:57 | 日記
アメリカ合衆国憲法では表現の自由が保障されている。
アメリカの国旗である星条旗を損壊する権利も認められているが、それは表現の自由を保障したアメリカ合衆国を象徴する星条旗を損壊することを禁止するのは、当の表現の自由を制限することになるからである。

僕は日の丸にも君が代にも興味がなく、斉唱の際起立しろと言われれば立つし歌いもする。
そんなことどうでもいいことだからであり、わざわざ反抗する意味もないと考えるからである。

だが僕は、卒業式で起立しなかった大阪府立高校の教師の方々を好ましく思う。
なぜなら彼らには信念を貫こうとする覇気が感ぜられるからだ。

僕は教師の適格性として、反権力志向のようなものが必要不可欠であると考える。
この資質が欠如した者が教師になると、教室や研究室はおべっか使いの天下になってしまうからである。

橋下さんよ、内田樹氏も言っておられたが、査定や格付け、あるいは恫喝などによる管理では先生方のオーバーアチーブは導出されないのだよ。
兵庫県が長年、「教師のストライキをどう思いますか?」、「ストライキの趣旨に十分納得ができ、あなた以外の先生方が全員ストライキに参加するとなった場合、あなたはどうしますか?」などという面接試験をやって、最後まで「いかなる理由があろうとも私は絶対ストライキはしません」と言い切った者だけを採用し続けた結果が、あの校門圧死事件だ。

無思想かつ権力追随型の人間は、規則絶対主義者になる。
時間がきたら、生徒が走りこんでこようがなんであろうが、230キロの鉄製門扉を勢いよく閉めるのだ。

橋下さんは「教師がルールを守らなくてどうする」と言っているが、セクハラや窃盗のようなルール違反と、君が代・日の丸に敬意を示さないこととは同列に論じられるものではない。
なぜ自国の国旗や国歌に敬意をもてない人々がいるのか真摯に反省しないでいきなり職務命令違反で処罰などというのは、まさに独裁であり、このような政治家を少なくとも僕は支持できない。

子供たちを自分とは価値観の違う者ともコミュニケートできる人間に養育するのが教育の目的である。
全員に同じ価値観をもたせるようにするというのは、ファシストの論理なのである(合掌)

命短し恋せよ乙女

2012-02-24 09:04:19 | 日記
自分で言うのもなんであるが、若い頃僕は相当女にもてた。
だが女の子から告白されたことは一度もない。

何なんであろう・・・僕に対する好意がはちきれんばかりであるのに、自分の方からは絶対気持をうちあけない女のプライドって?
自分から好きと言ってしまうと、何というか・・・「負け」みたいに感ずるのであろうか?

とくに僕が嫌だったのは、僕に対する恋愛感情をひた隠しにし、「あんたなんかにまったく興味はありません」という態度をとる女だ。
ホント馬鹿じゃなかろうかと今でも思う。

若い頃は時間がたっぷりあるように思えたが、僕も、僕に好意を寄せてくれた女の子たちもあっと言う間に色恋沙汰とは無縁の歳になってしまった。
ホント色恋沙汰に身を焼ける時期って瞬く間ですぞ。
男も女も好きな人にまっすぐ「好きです」とどんどん告白するべきだ。

まぁ、かくいう僕もふられるのが怖くてなかなか告白する勇気がもてない場合が多かったのだが(苦笑)
どうせあと二三十年もしたらこの世からおさらばするのだ、ふられることなんか気にせず、もっとどんどんアタックしておけばよかったとつくづく思う。

近年は「肉食系女子」とかいって、女の子たちの行動パターンも劇的に変わっているのかもしれないが、三十代女性の未婚率が50%を超えたとも聞くし、未婚の二十代から四十代までの女性で彼氏がいない者が68.3%もいるというデータがあるしな。

もちろん経済状況の問題、託児施設の問題等々、いろいろな問題があろう。
だが戦後すぐの焼け野原からしたら、現代の方がずっと環境がいいはずだ。

「一人では食えないが二人なら食える」とはよく落語に出てくる僕の好きなセリフだ。
女子も男子も好きな相手に素直に明朗に突撃したらいかがなものか。
ふられたらふられたでいいではないか。

その瞬間は意気消沈するであろうが、恋に燃えられる時期ってホント短いのだ。
気にせず次の恋を探せばいい。

・・・最近「孤立死」が相次いでいる。
もう家族がだめなら、他人同士でもいいから、お互いが安心してケアしあえる「親密圏」を築くのが急務ではなかろうか。
その第一歩が、「あなたが好きです、つきあってください」という明朗な態度だと思うのだが・・・。

男らしさ

2012-02-19 09:53:04 | 日記
その昔、フェミニズムがまだ隆盛を誇っていた頃、「男らしさ」や「女らしさ」を論ずるだけで吊るしあげを食らったものだった。
最近はフェミニズムも鳴りをひそめ、右寄りの発言がテレビ等でもよく聞かれるようになったが、「男らしさ」を堂々と語ることにも抵抗が少なくなってきたようだ。

橋下徹大阪市長は、まだ政治家になる前、あるテレビ番組で「男らしさ」とは女・子供を守ることだと断言していた。
そのほかの右翼系知識人たちも、だいたいこの考えに賛成のようであった。

だが、日本の伝統における「男らしさ」というのは、本来女にまったく目を向けないことであったのだ。

最近では「おねぇ系タレント」と称して、多くのゲイの方々がテレビ等で活躍されているが、昔は差別の構造が強固で、ゲイの方々はひっそりと身をひそめたり、全然その気はないように装って生きなければならなかった。
僕の先輩の友人にホモ・セクシャルの人がいたそうだが、その人の噂話を飲み屋でしていると、その飲み屋のおかみさんが「まったく女に目を向けないなんて、はぁ、男らしかぁ~」と感嘆の声を上げたそうである。

右翼系知識人の三宅久之氏や西部邁氏は「私は断じて同性愛者を許さない」と公言していたが、彼らは「男らしさ」をどうとらえているのであろうか?

まっ、俳優の萩原流行さんが言っていたが、「女々しいのが男」なのだ。
女に向って「お前は女々しい」とは誰も言わないものね。

美輪明宏氏などは「私は強い男と弱い女は見たことがない」といつも言っている(笑)
生物学的にもオスはメスの変種であり、支配原理はどうやら女の方にありそうだ。

統計をとったわけではないが、「俺は女房・子供を守る」と息巻いて、実は女房の掌で転がされているお父さんて、たくさんいるような気がする。
まぁ、確実に言えることは、男に「俺が女房・子供を守るんだ」と強く自己確信させるようにもっていく女がいちばん賢いということでしょうな(笑)

本を読むこと

2012-02-17 10:43:17 | 日記
僕は大学院博士課程まで進学して社会学を学んだ。
専攻した学問が生理学や電子工学であったなら誰も何も言わなかったであろうが、これが社会学であったため親戚のおっさん連中のコンプレックスを刺激したらしい。
親戚が集まる席で僕は、よく次のように言われた、

「本なんか読んで世の中分かるか!人生経験を積み重ねてこそ世の中や人間について分かるんだ」・・・と。

なんたる無知!なんたる教養のなさであろうか!!

だが、こういうことを言われたら、怒る前に冷静に次のように言えば宜しいかと思う、

「世の中が分かるって、具体的にはどういうことですか?」・・・と。

こう問われた無知蒙昧のおっさん連中は、こうすれば人間関係がうまくいく、こうすれば商売に成功して金儲けができる、こうすれな人生の勝ち組になれる等々、要するに「世渡りの術」つまり処世術をしっかりと身につけることが、すなわち世の中がよく分かっているということだと答えるであろう。

ふん、バカバカしい(唾)
社会学は処世術を研究する学問ではない。
この世の中をもっとよくするためにはどうすべきか考えるための学問である。

それに、本当の学問をしたことのある人にはお分かりであろうが、本を読めば読むほど自分の求める答が分からなくなっていくものなのだ。
なぜなら同じテーマについての研究であるのに、人によって、学者によって正反対の結論を下したりしている場合がほとんどだからである。
本を読むということは、自分の研究テーマについて、どれだけの考え方があるか確認する作業なのである。

その中でどういう結論を導き出すかは、諸々の考え方のなかから、統計的資料やフィールドワーク等々を通じて取捨選択やアウフヘーベンを繰り返しながら判断していくのである。

とにかく「本なんか読んで世の中分かるか!」などというのは蛮族の言葉であり、およそサミットに出席できる先進国の住人の言葉ではないと断言できる。
大人が子供や若者に「一冊でも多く本を読め」と言うのが文明国というものなのである(合掌)