kouheiのへそ曲がり日記

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要領のいいエゴイスト(25)

2015-05-05 04:10:25 | 日記
しかしながら、また、これまで素描してきたジンメルの「個人」概念にも、とくに現代社会における人間の精神生活と照合してみると、首肯しえない面があることは否めない。

主体と客体との相克から、より高次の自我統一を獲得していく不断の心的努力はおろか、その前提となる自己分離さえなされずにいる個人のなんと多いことか。
客体が複雑に構造化し、肥大しつづけて、主体の作用は委縮させられてしまっている。

これがジンメルのいう「文化の悲劇」であるが、それは後述するとして、以上述べてきたことから、デュルケームのいう<集合表象>の拘束性とは相容れざるものでありながら、それと同一視される危険性をもっている実際の事態を、いくらか具体的に例示してみよう。すなわち、

  1 学校における校則の濫用による管理強化
  2 企業における社是への帰依や宴会出席の実質的強制

等々の事態である。

1は社会的権力による、2は経済的権力による、それぞれ学校・企業の構成メンバーの行為に対する、明らかに今日の法理念に抵触する方向づけであるが、このような事態が生じる背景には、権力者側は主に個人を利己的・欲望追求的存在として定位しており、逆にこういった管理・強制に服従する諸個人の側からみれば、主体の作用の委縮すなわち自由を享受したうえでの活動能力の無さが自覚されているという事情があるといえよう。

要するに、デュルケームが「<集合表象>が個人を拘束する」という命題で真に表現しようと意図したことは、ジンメルの「個人」概念における「主体」に対応する概念装置なしでは、誤解され、<集合表象>の拘束性に関する命題が社会的等の権力に方向づけられた行為の他律性を道徳性として正当化することに奉仕する危険性を孕んでしまう。
そして、実際の社会生活における経験的妥当性がこの傾向を促進する。

さて、「社会的事実」とデュルケームが呼んだものが、今日の用語では、文化体系 cultural system であることは論をまたない。
さらに、<集合表象>というタームが、第一義的には社会規範の体系を指示していることも同様である。

<集合表象>とは、社会成員が共通に認知するにとどまらず、さらに尊重し(義務)、かつ愛する(善)道徳である。(つづく)