さて、社会とは人間関係のシステムであり、文化とは社会のメンバーに共通の感得・思惟・行動の様式である。
芸術とは、その新しい「様式」を生みだす営みにほかならない。
大雑把にいえば、科学が現存在との認識的一致を目指すのに対して、芸術は未来の新しい精神の有り様を表現するものなのである。
ここで重要なのは、「美しい」ということと「きれい」ということが実は正反対のことだということである。
「きれい」ということは、表現の感覚的受容が容易だということである。
これに対し「美しい」ものとは、感覚的受容が困難なものなのである(純文学とエンターテインメントなどという区別は、ここに由来する)。
本当に美しいものを鑑賞するとき、我々はむしろ苦しい思いをする。
やれ、あれが得だの、それが楽だの、そういう日常の小賢しい精神状態では、「芸術」を鑑賞することはできない。
本当に美しい作品は、我々の日常的計算を嘲笑うかのごとく魂に迫ってくる。
そういう「鑑賞」は、むしろ苦痛を伴うものなのである。
なぜなら、めいっぱい心のアンテナを拡げなければならないからだ。
ぬくぬくと座ったままの、小賢しい日常的自分を止揚しなければならないからである。
そういう精神状態でこそ、規範を逸脱せざるをえない人間的真実が理解される。
そこにおいてこそ新たなる人間精神の有り様が理解できるのである。
芸術における「ヒューマニズム」とは、正邪や善悪などといった、つまらぬモラルの判断を超越して人間的真実を過不足なく掴みとることなのである。
芸術とは、その新しい「様式」を生みだす営みにほかならない。
大雑把にいえば、科学が現存在との認識的一致を目指すのに対して、芸術は未来の新しい精神の有り様を表現するものなのである。
ここで重要なのは、「美しい」ということと「きれい」ということが実は正反対のことだということである。
「きれい」ということは、表現の感覚的受容が容易だということである。
これに対し「美しい」ものとは、感覚的受容が困難なものなのである(純文学とエンターテインメントなどという区別は、ここに由来する)。
本当に美しいものを鑑賞するとき、我々はむしろ苦しい思いをする。
やれ、あれが得だの、それが楽だの、そういう日常の小賢しい精神状態では、「芸術」を鑑賞することはできない。
本当に美しい作品は、我々の日常的計算を嘲笑うかのごとく魂に迫ってくる。
そういう「鑑賞」は、むしろ苦痛を伴うものなのである。
なぜなら、めいっぱい心のアンテナを拡げなければならないからだ。
ぬくぬくと座ったままの、小賢しい日常的自分を止揚しなければならないからである。
そういう精神状態でこそ、規範を逸脱せざるをえない人間的真実が理解される。
そこにおいてこそ新たなる人間精神の有り様が理解できるのである。
芸術における「ヒューマニズム」とは、正邪や善悪などといった、つまらぬモラルの判断を超越して人間的真実を過不足なく掴みとることなのである。