kouheiのへそ曲がり日記

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科学と芸術におけるヒューマニズム(続)

2014-07-31 14:03:13 | 日記
さて、社会とは人間関係のシステムであり、文化とは社会のメンバーに共通の感得・思惟・行動の様式である。
芸術とは、その新しい「様式」を生みだす営みにほかならない。

大雑把にいえば、科学が現存在との認識的一致を目指すのに対して、芸術は未来の新しい精神の有り様を表現するものなのである。

ここで重要なのは、「美しい」ということと「きれい」ということが実は正反対のことだということである。

「きれい」ということは、表現の感覚的受容が容易だということである。
これに対し「美しい」ものとは、感覚的受容が困難なものなのである(純文学とエンターテインメントなどという区別は、ここに由来する)。

本当に美しいものを鑑賞するとき、我々はむしろ苦しい思いをする。
やれ、あれが得だの、それが楽だの、そういう日常の小賢しい精神状態では、「芸術」を鑑賞することはできない。
本当に美しい作品は、我々の日常的計算を嘲笑うかのごとく魂に迫ってくる。

そういう「鑑賞」は、むしろ苦痛を伴うものなのである。
なぜなら、めいっぱい心のアンテナを拡げなければならないからだ。
ぬくぬくと座ったままの、小賢しい日常的自分を止揚しなければならないからである。

そういう精神状態でこそ、規範を逸脱せざるをえない人間的真実が理解される。
そこにおいてこそ新たなる人間精神の有り様が理解できるのである。

芸術における「ヒューマニズム」とは、正邪や善悪などといった、つまらぬモラルの判断を超越して人間的真実を過不足なく掴みとることなのである。

科学と芸術におけるヒューマニズム

2014-07-30 14:31:04 | 日記
社会の統合機能を有する「文化」という概念には、少なくとも以下の4側面がある。

 ①外界とりわけ自然界に作用して、これを人間の利便に供する、道具的知識のシステム。
 ②行為者に超越的目的を示し、理想実現のための行為を導く、信念のシステム。
 ③思想や行為内容の是非・正邪・善悪を判断する、良心のシステム。
 ④表現の感覚的受容の容易さ、および困難さを表す、純粋意識のシステム。

①の具体例は科学・テクノロジーであり、②の例は宗教やマルクス主義であり、③の例は法や規範であり、④の具体例は芸術やファッションである。
それぞれ漢字一文字で表現するならば、真・聖・善・美、となろう。

一般論としては、科学は真理を目指すものだということは言えるし、多くの方々が納得される言い方であろう。
だが科学は、必然的に現実を抽象化する精神作用を経るものであり、理論の網の目からは必ず何がしかのモノがこぼれおちる。

科学はどんなに優れたものであれ、それすなわち客観的「真理」とはならないのである。
とくに社会科学においては、このことを忘れると<教条主義>に陥り、ますます「真理」から遠ざかってしまうのである。

本物の科学者は、理論と現実が別物であることを決して忘れず、理論からこぼれおちてしまったモノへの慈しみの情をもつ。
これがいわゆる(科学における)「ヒューマニズム」と呼ばれるものなのである。(つづく)

モラリストに芸術は分からない

2014-07-23 10:53:56 | 日記
僕は大学院生だった頃、ある人格破綻の助教授に濡れ衣を着せられ、盗撮カメラと盗聴マイクによってプライヴァシーを蹂躙されていた。

僕はある日ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を聴いたのだが、翌日その助教授に言われた、

「あの she's leaving home という曲は何や!?家出者がでたらどないするんや!?」・・・と。

彼はイギリス国教会系のクリスチャンであり(ジャパニーズ・クリスチャンには異常性格者が多いと認めている牧師が確かに存在する)、典型的なモラリストであった。

モラリストにとって規範から逸脱することは、生理的拒否反応を誘発されることなのである。
ホントつまらない人種だ。

規範から逸脱せずにはおれないところに人間的真実を見出し、この人間的悲しみに泣かされるのが真の芸術鑑賞者なのである。


モラリストには、芸術は決して分からない(唾)

集団的自衛権

2014-07-02 09:36:20 | 日記
集団的自衛権容認をもたらしたのは、中国と北朝鮮と韓国である。
彼らがここ数年来反日的態度をとりつづけたことが、7月1日の閣議決定の大きな要因となったのだ。
容認派の国民も異口同音に、中・朝・韓が攻めてきたら怖いと言っていた。

韓国の朴槿恵大統領の態度は、自民党にとってこれ以上は考えられないくらいの「恩寵」であったろう。
これならイケると安倍首相は内心狂喜していたはずだ。

公明党の慎重なスタンスという「田舎芝居」を経て、いよいよ歴史の転換点に我々は運ばれたのである。

だが安倍首相の話を聞いていると、首をかしげざるを得ない。
自衛隊が、戦闘に際して絶対負けないスーパーフォースであるかのように措定されているからだ。
自衛隊が出ていけば、たちどころに戦闘が終結すると考えているとしか思えない。

実際戦闘状態になったら、そんなに簡単に事が運ぶわけはない。
勝とうが負けようが、必ず犠牲者が出るだろう。

「国民の命を守る」と言っているが、国民って誰だ?

はっきり言おう。
安倍首相の言う命を守るべき「国民」とは、じつは天皇皇族と資本家と官僚のことなのだ。
我々庶民が何十万人死のうが、天皇さえ生き延びればいい、というのが本音なのである。

次は、おそらく現代版教育勅語の復活であろう・・・。